直江兼続の名言・逸話31選
- 2022/02/16
兼続は主君の上杉景勝とともに、戦国の動乱から豊臣政権のもとでの天下泰平、徳川幕府への政権移行の混乱期を乗り切っています。上杉家は秀吉・家康という二人の天下人のもとで、越後から転封され、領地も大幅に削られたりしましたが、藩主として太平の世に生き残ることができました。それはひとえに上杉景勝と、彼をサポートした直江兼続の活躍によるものでしょう。
今回はそんな直江兼続の逸話を時系列でご紹介します。
直江兼続も樋口兼続→直江兼続(婿養子)や兼続→重光と名前を変えています。今回は、特に支障がない限り「直江兼続」で統一して表記します。
幼少期
直江兼続は、桶狭間の戦いがあった永禄3(1560)年に樋口家に生まれます。
生まれた時は「直江」でなく「樋口」
直江兼続は、樋口兼豊の子として生まれた。(『上杉家中諸士略系譜』)
身分の高い家ではなく、父親の地位や母親についても諸説あります。一説には、後に主君となる上杉景勝やその母・仙桃院(上杉謙信姉、長尾政景妻)に関係する人物だったそうです。
美貌で上杉景勝に見出される?(14~15歳)
兼続が14、5歳の時、その美貌が上杉景勝の目にとまり、身辺に近侍することになった。兼続を寵愛した景勝は、成人した兼続に家老職を任せようとしたが、家臣たちがその出自が低いことをもって反対した。そこで景勝は、兼続を、後継者がない直江家の養子として、上杉家の家老として迎え入れたという。(『藩翰譜』)
直江兼続が美男子だという伝説はいくつか残っています。現存する上杉博物館の肖像画からも、目鼻立ちが整った美男子の面影が伝わってきます。一方で、次に挙げるように、兼続は直江家を継承する前から上杉家中でかなりの権力を握っていたことが分かっています。ですので、「出自が低いから家老になるのを反対された」という伝説は誤りだといえます。
上杉景勝の側近となる(21歳頃)
天正9(1581)年頃から、上杉家領内の様々な情報が、兼続経由で景勝に伝えられるようになる。(『上杉家文書』)
兼続が何故大きな権力を握っていたかについては諸説あります。一説に、この2年前に発生した上杉家の後継者争い・御館の乱で、兼続が上杉景勝をサポートしたことで信任を得た、という見解もあります。この頃から上杉景勝・兼続の二人三脚体制が出来たと思われ、それは兼続の生涯にわたって続きました。
上杉家一門が兼続に敬語を使う(21歳頃)
天正9(1581)年6月3日付の、上条政繁(上杉景勝の妹婿)から兼続に出された手紙の末尾は、目上の人に使うべき「恐惶謹言」という表現が選ばれている。(『上杉家文書』)
他にも同様の例は多く、当初から兼続の立場が高かったことが分かります。
直江家継承
ここまでの兼続は「直江」兼続ではなく「樋口」兼続でした。特に何事もなければ兼続は樋口姓のままでしたが、ある日、春日山城内でとんでもない事件が起きました。
上杉家家老の直江信綱、刃傷沙汰に巻き込まれ死亡(21歳)
天正9(1581)年9月、論功行賞のもつれから、毛利秀広が上杉景勝側近で儒者の山崎秀仙に斬りかかった。たまたま山崎と談笑していた直江信綱も巻き込まれ、山崎とともに斬り殺されてしまった。(竹田久太郎氏所蔵文書ほか)
毛利秀広は、御館の乱で戦功をあげたにも関わらず、何の恩賞も受け取れませんでした。それを山崎秀仙のせいだと勘違いしたのが事の発端でした。その場に居合わせた直江信綱は気の毒としか言いようがありません。
兼続、直江家を継ぐ(21歳)
死亡した直江信綱は直江家の婿養子で、まだ子供がいなかった。名門・直江家の断絶を悲しんだ上杉景勝は、側近の樋口兼続を信綱の未亡人・お船の夫とし、直江家の婿養子として家を再興させた。(『上杉年譜』ほか)
直江家は上杉家の家老の家柄です。信綱の養父・景綱は「上杉四天王」のひとりにも名が上がるほどで、上杉謙信の家臣としてその治世を支えました。
そんな直江家が、貰い事故によって断絶することは、上杉景勝にとっても不本意だったのでしょう。
お船は兼続の3歳年上でした。夫婦仲は良かったようで、兼続は生涯側室を持たずに過ごしました。子供も何人か授かりましたが、晩年に授かった男児が病弱で、兼続に先立って亡くなります。
その後養子をとることもなく、寛永14(1637)年にお船が没したことで直江家は断絶します。
重臣・新発田重家の謀反に対応する(21歳~28歳)
天正9(1581)年、上杉家重臣・新発田重家は、御館の乱の論功行賞に不満を持ち、織田家と内通して上杉景勝に対し謀反を起こした。重家は北から、織田家は越中・信濃・上野などから侵攻したが、織田信長の死で計画は白紙になる。
新発田重家は豊臣秀吉の降伏勧告に応ぜず、上杉景勝と直江兼続は力攻めを決意。何度も本拠地・新発田城を包囲し、激闘の末、天正16年(1588)10月に重家を討ち取った。(『歴代古案』ほか)
豊臣政権下で
戦国の動乱も終焉が見えてきました。畿内では、織田信長の後継者として豊臣秀吉が名乗りをあげ、着々と勢力を拡大しつつありました。もちろん、上杉家とて無関心ではいられません。すでに豊臣秀吉と接触していた景勝・兼続主従は、上杉家の生き残る道を模索しはじめます。
兼続、豊臣秀吉・石田三成と対面する?(25歳)
天正13(1585)年、秀吉は大軍を率いて越中の佐々成政の討伐に向かった。そのついでに、越後との国境付近に上杉景勝らを呼び寄せ密談したという。秀吉側は秀吉と石田三成、上杉方は景勝と直江兼続の4人だったという。(『上杉三代日記』)
翌年、上杉景勝と直江兼続は大坂に上洛して秀吉に謁見しています。景勝は従四位下・左近衛権少将に任じられ、兼続も千利休から茶の湯のもてなしをうけています。
「豊臣」の姓を与えられる(28歳)
天正16(1588)年8月、直江兼続は従五位下に叙任され、秀吉から豊臣姓を賜った。これに先立ち、上杉景勝は5月に従三位・参議に叙任され、豊臣姓を賜っている。(『上杉家文書』)
この待遇は、陪臣(家来の家来)に対するものとしては破格の扱いです。
佐渡金山支配を任せられる(29歳頃)
天正17(1589)年、上杉景勝は佐渡の本間氏を攻め、佐渡を完全に手中にした。直江兼続は佐渡への代官配置を任されている。(『妙宣寺文書』ほか)
金は賤しいもの?
ある日、聚楽第で伊達政宗が懐から大判一枚を取り出し、近年市場に出回り始めたものだといって見せびらかした。兼続が扇の上に大判を乗せて見ていると、政宗が「手にとって見てよい」と言った。すると兼続は、「謙信公のときより采配をとった手で、このような賤しいものを持てない」と言って、政宗に金を投げ返したので、政宗は赤面したという。(『名将言行録』)
会津120万石に加増転封、兼続も6万石の知行を得る(38歳)
慶長3(1598)年、上杉景勝は会津120万石に加増転封となった。家臣団のうち、直江兼続の知行は6万石で最も多く、米沢城も預かることになった。(『米沢市史』)
実際は政務のため米沢に戻ることはあまりなかったそうです。
今回の転封の背景には、蒲生氏郷の死があります。氏郷は伊達政宗の押さえとして会津91万石を預かっていました。しかし文禄4(1595)年に急死し、嫡男も若かったため、会津はいったん秀吉に取り上げられていました。
上杉景勝は、かつて蒲生氏郷が担っていた役目を任される形になります。
加増とはいえ、代々の居城である越後春日山を離れるのは複雑な思いだったのではないでしょうか。
関ヶ原の戦い
豊臣政権では五大老の地位についた上杉家ですが、その後も決して安泰ではありません。豊臣秀吉が亡くなり、前田利家が亡くなると、徳川家康が影響力を増してきました。
慶長4(1599)年、徳川家康は前田利長に謀反の疑いありとして、上洛して申し開きをするよう要求します。全くの言いがかりでしたが、利長は争うことを選ばず、家康に降伏して実母・芳春院を人質に差し出します。
前田家を従えた家康が、次に目をつけたのは、同じく五大老の一角を担う、上杉家でした。
年貢を持ち逃げして堀直政に恨まれる?(38歳頃)
上杉家が会津に移転するとき、本来は半分残していくはずの年貢米を、兼続が全部持ち去ってしまった。上杉家にかわって越後を治めることになった堀直政は、兼続に年貢米の返却を求めるものの、兼続は応じなかった。そのため、直政は徳川家康に「上杉家に謀反の気配がある」と讒言したという。(『越後風土記』)
直江状で徳川家康に喧嘩を売る(40歳)
慶長5(1600)年4月、徳川家康は上杉景勝に対し、謀反の疑いがあるので上洛して申し開きをするよう使者を送った。その手紙に対し、直江兼続は、理路整然と反駁しつつ家康の無法ぶりを挑発する手紙(直江状)を返した。そのため、徳川家康は上杉家討伐を決めた。(『上杉家御年譜』ほか)
家康は前田家と同じ手段で上杉家を従えようとした模様ですが、直江兼続に喧嘩を売られます。
直江状は偽物?
直江状は原本が残っておらず、写本の形で『上杉家御年譜』『編年文書』『古今消息集』ほか多数の書物に伝わり、文言がそれぞれ微妙に異なる。
文中の表現などにも疑問があり、専門家の中には直江状を偽作とする人もいる。
ただし、上杉家が徳川家康の恫喝に屈しなかったのは事実なので、両者の間に何らかのやりとりがあったのは間違いないでしょう。また直江状が偽作としても当時の政情をよく知った人の作ではないか、と言われています。
石田三成と徳川家康挟撃作戦をとる?
創作の世界では、石田三成は直江兼続とあらかじめ示し合わせて東西で挟撃作戦をとったという話がある。(司馬遼太郎『関ヶ原』ほか)
残っている古文書によると、上杉方と石田三成が連絡をとっているのは確認できるが、家康の会津討伐が決定した後から始まった可能性が高い。(『上杉家文書』ほか)
家康を追撃せず
会津討伐に出て来た徳川家康が、下野国小山で反転して関ヶ原に兵を進めたとき、上杉景勝軍は追撃をできる有利な立場だったのに、軍を動かさなかった。
一説には、直江兼続は追撃を主張したが、上杉景勝が「秀吉との約束で私闘をしないと誓ったから、相手が攻めてこないのに攻めかかるのは約束に違反する」と言って進軍を許さなかったという。(『名将言行録』)
そうはいうものの、私闘をしないと約束した云々という割に、上杉景勝と直江兼続は伊達領にちょっかいを出しているので、上記の伝説は筋が通らないようです。
さらに、追撃戦は追う方が圧倒的に有利なので、石田三成と東西挟撃作戦を計画していたならなおさら、これ幸いと追撃すべき場面のようにも思えます。ただ、伊達政宗が直後に軍を動かしているところからすると、政宗の動きが気になって「追撃できなかった」という面もあるかもしれません。
伊達・最上連合軍との激戦、前田慶次の働きで危急を脱する?
上杉軍は東軍に属する伊達家の山形城を攻めていたが、石田三成の敗戦を知り、撤退を計画する。しかし、同じく情報をつかんだ伊達政宗・最上義光の連合軍が押し寄せて激戦になる。
しんがりを務めた直江兼続隊も壊滅の危機となり、兼続も自害を決意するまでに追い詰められた。しかし軍に加わっていた前田慶次とその配下の牢人たちが救援に来て伊達軍を押し返した。その隙に兼続は戦線離脱して、上杉軍もなんとか会津に戻れたという。(『奥羽永慶軍記』ほか)
前田利家の甥・前田慶次は、この頃上杉家に牢人として仕えていたと言われています。慶次を主人公とした創作物では、彼が景勝・兼続主従とともに活躍する描写がなされていますが、史実かは不明です。
結城秀康を頼って徳川家康に謝罪する(41歳)
関ヶ原での徳川軍勝利を聞いた上杉景勝は、上洛して家康に謝罪しようと決意する。慶長6(1601)年、上杉景勝と直江兼続は、結城秀康・本多正信・榊原康政らを頼って伏見城の家康に詫びをいれた。領地は120万石から米沢30万石になったが、改易は免れた。(『上杉文書』ほか)
一説には、関ヶ原に向かう徳川軍を追撃しなかったことで、「徳川に敵対する意思はなかった」と見なされ助かったともいいます。
なお、没収された90万石のうち会津を含む60万石は、前の会津城主・蒲生氏郷の息子である秀行にあてがわれました。その後も藩主の早世や何やらで家が入れ替わり、最終的に保科正之が会津藩主となり、会津松平家が幕末まで続きます。
大坂の陣、そして晩年
関ヶ原の戦いを経て、上杉家は米沢の一大名として生きながらえます。乱世から太平の世に変わる中で、直江兼続もひっそりと晩年を迎えました。
上杉景勝の嫡子を養育する(44歳)
慶長9(1604)年、上杉景勝に長男が誕生した。生母が間もなく死亡したため、直江兼続・船夫妻が親代わりになって養育した。(『上杉家年譜』)
彼らが育てた子が、のちに米沢藩二代目藩主になる上杉定勝です。兼続の死後、妻の船は、上杉定勝を養育した功績で、3000石もの禄を得て豊かな晩年を過ごしました。
大坂冬の陣で鉄砲隊が活躍(54歳)
慶長19(1614)年、徳川家康の命令で、上杉景勝・直江兼続は5000余の兵を率いて大坂冬の陣に参陣した。彼らは佐竹軍1500余とともに大坂城の東側、鴫野・今福の砦を攻め、一万ほどの豊臣軍と激戦を繰り広げた。このとき活躍したのが上杉軍の鉄砲隊で、攻めかかる豊臣軍の正面と側面から射撃を浴びせ大勝を得、更に佐竹軍の救援にも駆けつけ大活躍をした。(『歴代古案』ほか)
この時活躍した鉄砲隊は、関ヶ原の合戦後に直江兼続が中心となって整備した軍でした。この戦いが大坂冬の陣最大の戦闘で、上杉家の武将には将軍・徳川秀忠から感状が与えられました。
嫡男が病死する(54歳)
直江兼続の嫡男・景明は生来病弱だったが、元和元(1615)年に病没した。(『上杉年譜』)
景明の生年は不詳ながら、文禄3(1594)年頃の誕生とみられるので、当時21歳前後でした。
江戸の屋敷で病死(59歳)
元和5(1619)年、直江兼続は江戸の屋敷で病死した。遺骨は米沢に葬られた。(『上杉年譜』)
嫡男の死後、兼続は養子をとらなかったので、名門・直江家の断絶は決定的になりました。
人物など
ここでは、直江兼続の人柄や遺品に関わる逸話をご紹介します。
秀吉に政治手腕を認められる
豊臣秀吉は、陪臣で天下の政治を任せられるのは、直江兼続ほか数名だと言った。(『名将言行録』)
背が高かった
直江兼続は大男で文武両道の人物であったという。(『常山紀談』)
直江兼続は長身で姿が美しかったという。(『名将言行録』)
十代の頃の伝説でも「美少年だった」という逸話があり、江戸時代の認識では、直江兼続は「文武両道かつイケメンの武将」だったようです。
蔵書家
直江兼続は貴重な古典籍を多数所蔵しており、文禄の役でも現地の典籍を多数求めた。(米沢市役所Webページ)
兼続の蔵書はまとまった形では残っていませんが、一部は市立米沢図書館の蔵書となっています。
日本初の銅活字で本を摺る?
慶長12(1607)年、直江兼続は『文選』を活字で出版した。一説には、日本ではじめて銅活字で摺った本と言われている。(国立公文所館Webページ ほか)
この本は「直江版」と呼ばれています。銅活字を使用したかについては見解が分かれており、木活字だという説もあります。それにしても、まだ写本が主流だった時期の取り組みは時代を先取りしたものでした。
鉄砲を研究する
直江兼続は鉄砲の重要性に着目し、天正10(1582)年頃から砲術師に教えを乞うとともに、弾薬の製造を米沢城下で実施した。慶長9(1604)年には家中に『鉄砲稽古定』を発布して砲術の体得を奨励している。(『上杉家文書』)
前田慶次と友人?
直江兼続は、傾奇者で有名な前田慶次と接点があったらしい。直接的な史料は残っていないが、『前田慶次道中日記』などによると、慶長6(1601)年頃には慶次も米沢にいて、上杉家に仕官しているようなので、二人の接触はあったと思われる。
江戸時代以降の物語では、二人は親友であるような脚色も見られます。確かに二人とも文芸に秀でており、近所で過ごしていたようですが、友人関係が本当にあったかどうかは謎のままです。
兜の「愛」はLOVEではなく愛染明王の「愛」
直江兼続所用の金小札浅黄糸縅二枚胴具足は、兜に「愛」の前立てがあることで有名。これは恋愛の「愛」ではなく、兼続が信仰していた愛染明王の「愛」だと伝わる。(上杉神社)
上杉謙信や景勝が毘沙門天の「毘」の軍旗を使うのと似た発想です。
30万石になったのに120万石の時の家来を連れていったから…
上杉家は、上杉鷹山の頃まで随一の貧乏藩だった。本郷和人氏によると、原因は、関ヶ原の戦いで石高を四分の一に減らされたのに、直江兼続が元の家臣たちを皆連れて行ったため、収入に比して家来が多すぎる状態になったからだという。(「失敗の日本史」)
おわりに
直江兼続は上杉景勝の片腕として、戦国時代の終焉を生き抜きました。
彼の政治手腕については賛否あるところではありますが、一人の主君に生涯仕えて、主と伴走する形で家を守るという姿勢は、戦国武将というより、むしろ江戸時代の家老の印象が強いように思います。
直江兼続の世代にはすでに江戸時代に通じる考え方や価値観があったのでしょう。兼続が守った上杉家は泰平の世を生き延びて、幕末・維新を迎えます。
【主な参考文献】
- 『新・歴史群像シリーズ⑰ 直江兼続』(学研、2008年)
- 花ケ前盛明『新潟県人物小伝 直江兼続』(新潟日報事業社、2009年)
- 花ケ前盛明『直江兼続史跡探訪』(新潟日報事業社、2009年)
- 花ケ前盛明ほか『直江兼続の新研究』(宮帯出版、2009年)
- 「失敗の日本史」
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