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将棋の藤井聡太さんが400年に1人の天才と呼ばれるのはなぜなの?

2016年末にデビューした将棋のプロ棋士・藤井聡太さんは、前人未到の記録を次々と打ち立てていた頃、「400年に1人の天才」と呼ばれました。藤井さんが希代の天才なのは分かりますが、なぜ400年なのでしょう? それは現代と同じようなルールが確立され、「プロ棋士」が登場した時期が江戸時代までさかのぼるからです。

日本の将棋が成立した経緯は諸説ありますが、平安時代には原型ができたとみられています。その後、大陸から伝来した囲碁と一緒に公家や僧侶、武士らに親しまれ、取った駒を再利用できるユニークなルールで一般の民衆にも広まりました。

囲碁は中国にならって教養のひとつとされる風潮もありましたが、将棋は長らく娯楽と位置付けられていました。しかし慶弔17年(1612)に大きな転機が訪れます。囲碁と将棋の達人として時の権力者たちを楽しませてきた本因坊算砂や大橋宗桂ら八人に、江戸幕府が正式な俸禄を与えたのです。これを機に「囲碁打ち衆」と「将棋指し衆」が分かれ、特別な芸能者―つまり職業棋士として認められるようになったと言えるでしょう。

俸禄を与えたのは、駿府城で隠居しながら大御所として幕府の実権を握った徳川家康でした。多趣味だった家康は囲碁将棋を愛好し、積極的に庇護しました。公権力のバックアップのおかげで、家康亡き後も囲碁将棋はさらなる発展を遂げます。それぞれの技能を伝える家元制度ができると、寺社奉行の傘下で集団として禄を得るようになりました。

三代将軍の家光の頃には、各家を代表する腕自慢が将軍の御前で対局を披露する「御城碁」と「御城将棋」が年一回のペースで行われるように。この公務は幕末の文久元年(1861)まで続きました。長年にわたり専業の「プロ棋士」たちが家名を懸けて切磋琢磨することで、盤上の研究がどんどん深まっていったのです。

現在プロ棋士の対局が行われている関西将棋会館(大阪市)で最も格式の高い対局室を「御上段の間」といいます。同じフロアの他の部屋よりも一段高く設計された和室で、御城将棋が指された江戸城の黒書院の間を模してつくられました。こうしたエピソードは、日本の伝統文化を守ってゆこうという将棋界の意気込みの表れです。

西洋のチェスや中国のシャンチーなど、将棋に似たゲームは古くから世界各地にありました。しかし日本より前に公的なプロ棋士が存在した例はないようです。家康は単なる遊戯だった将棋を文化の域にまで高めた立役者と言えるでしょう。日本将棋連盟は2012年、家康に「十段」の免状を贈りました。棋士の最高段位は九段。それを超える称号が、受けた恩義の深さを物語ります。

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  この記事を書いた人
かむたろう さん
いにしえの人と現代人を結ぶ囲碁や将棋の歴史にロマンを感じます。 棋力は級位者レベルですが、日本の伝統遊戯の奥深さをお伝えできれば…。 気楽にお読みいただき、少しでも関心を持ってもらえたらうれしいです。

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