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囲碁の達人、本因坊文裕って誰のこと?

「本因坊(ほんいんぼう)」という言葉を聞いたことはありませんか。現代では囲碁の三大タイトルの1つとして広く知られていますが、もともとは京都にある法華宗の本山・寂光寺の境内にあった塔頭(小寺)を指す言葉でした。永禄2年(1559)に生まれ、その本因坊の住職を務めたのが日海という僧侶。彼は囲碁の達人「本因坊文裕(もんゆう)」の大先輩なのです。

日海は当時娯楽として武家に親しまれていた囲碁と将棋がとても強く、安土桃山時代から江戸時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に寵愛されました。今も卓越した芸や技を持つ者を「名人」と呼びますが、信長が日海をそう称えたことが始まりという説があります。ともあれ、まるでタイプが違う三人の名将に可愛がられたのですから、きっと大変魅力的な人物だったのでしょう。

とりわけ日海を重用したのが、大の囲碁好きで知られる家康でした。慶長8年(1603)に江戸幕府を開いた際は、日海を京都から江戸に移住させています。その頃から日海は自身が暮らした塔頭にちなんで「本因坊算砂」と名乗るようになりました。算砂には幕府から正式な俸禄が与えられ、囲碁の家元の1つとして本因坊家も生まれました。

※本因坊算砂の肖像
※本因坊算砂の肖像

こうした歴史を背景にして昭和14年(1939)に始まったのが、毎日新聞社主催の囲碁タイトル戦「本因坊戦」です。

算砂を起源とする本因坊の名跡は、戦前まで世襲で受け継がれていました。それが二十一代目の本因坊秀哉の英断で、実力制へと生まれ変わります。多くの棋士が参加する棋戦を勝ち抜いた者が、この歴史ある称号を手にする仕組みになったのです。本因坊は単なる称号でなく家名でもあります。そのためタイトルを何度も獲得した棋士が、本因坊を苗字とした「号」を名乗る独特の慣行もあります。

冒頭でご紹介した本因坊文裕とは、実は現代のプロ棋士・井山裕太さんのこと。七大タイトル独占を2度も成し遂げて国民栄誉賞を受賞し、今もバリバリのトッププレイヤーとして国際的に活躍している日本囲碁界の第一人者です。

井山さんは2016年の本因坊戦で5連覇したのを機に、「文裕」の号を名乗るようになりました。命名したのは、算砂の墓所もある寂光寺のご住職。井山さんの名前からひと文字とった上で、智恵を司る「文殊菩薩」にちなんだそうです。

井山さんは初代の算砂から数えると、二十六代目の本因坊にあたります。テレビや新聞でよくお見かけする有名人が、悠久の歴史につながっていると考えると、なんともいえないロマンを感じますね。

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  この記事を書いた人
かむたろう さん
いにしえの人と現代人を結ぶ囲碁や将棋の歴史にロマンを感じます。 棋力は級位者レベルですが、日本の伝統遊戯の奥深さをお伝えできれば…。 気楽にお読みいただき、少しでも関心を持ってもらえたらうれしいです。

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