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【やさしい歴史用語解説】「平城京」
- 2023/04/03
和銅3年(710)、藤原京から平城京(へいじょうきょう)への遷都が行われました。息子の文武天皇が25歳の若さで崩御したあと、孫の聖武天皇へ皇位継承させるために即位した元明天皇が遷都の詔を発しています。
元明天皇は女帝だったのですが、我が国初めての国産貨幣・和同開珎を鋳造させたり、『古事記』や『風土記』などを編纂させるなど、経済や文化面でも名を残した天皇でした。
ところで平城京はどうして作られたのでしょうか?
そこには日本が律令国家として歩み出すためのビジョンがありました。単に天皇の住まいや役所を置くだけなら大きな都は必要ありませんが、内外に権威を指し示すことが何より重要でした。立派な都を作ることで、国内はもとより海外に対しても国家の威厳を示す意図があったようです。「日本もこれだけの都を作れるのだ」とアピールする絶好の機会になるでしょう。
だからこそ平城京の建設にあたっては、碁盤の目状に走る道路によって街区が区画された「条坊制」を採用しています。当時、長安や洛陽といった大陸の都市では条坊制がスタンダードですから、平城京もそれに倣った形となりました。
平城京の中央を南北に走る朱雀大路によって、東側の左京と西側の右京に分けられ、北部中央には平城宮があり、その内側には天皇が生活する場である内裏、そして政務や儀礼の場である大極殿や朝堂院、さらに二官八省と呼ばれる中央官庁が配されていました。
東西約4.3キロ、南北約4.8キロの長方形に加えて、東西約1.6キロ、南北約2.1キロの外京を加えた総面積は約2500ヘクタールに及ぶとされて、京内には貴族・官人・庶民の住宅が立ち並んでいたようです。
また約10万人の人口を養うために東市・西市といった官設市場が設けられ、穀物や農産物・日用品などが売られていました。平城京には全国から物資が集まることもあって活況を呈していたとか。
ところで、天皇の即位など重要な儀式が執り行われる大極殿ですが、平城京にはなんと大極殿が2つもあったようです。実は聖武天皇の時代、恭仁京や難波京へ目まぐるしく遷都しており、そのたびに大極殿を解体・移築していました。その後、またしても平城京を都とするのですが、以前の大極殿があった東側に大極殿を移築したそうです。
ちなみに平城宮跡で復元されている第一次大極殿は元明天皇の時、第二次大極殿は聖武天皇の時とされています。
そして平城京の特徴を表すのが寺院でしょうか。律令制に基づいた政治の中心地だけでなく、大安寺や元興寺・薬師寺といった飛鳥の寺院が平城京へ移され、国家鎮護の役目を担いました。その後、東大寺や唐招提寺などが新たに建立されたことにより、仏教都市としての色合いが濃くなっていくのです。
さて、延暦13年(794)に平安京へ都が移されたことにより、平城京はその役目を終えました。その後、跡地の多くは耕されて田畑になったそうです。それでも名だたる大寺院がこの地域に残り、南都そして奈良と呼ばれて栄えていきました。
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