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【やさしい歴史用語解説】「倒幕と討幕」
- 2023/08/10
まず「倒幕」ですが、これは幕府を倒すために謀議をこらすことを意味します。
例えば江戸時代末期に長州藩と薩摩藩が結びつき、倒幕計画を練り上げました。そして倒幕派の公家たちによって「倒幕の密勅」が薩長へ下されるわけですが、結果的に徳川慶喜が大政奉還を行使したことで、計画は実現に至りませんでした。
ところがおかしですね…倒幕といいつつ、密勅は「討幕」となっています。これはのちに説明しましょう。
次に「討幕」ですが、文字通り「幕府を討つ」と書きます。
これは武力によって幕府を倒すことを意味するもの。わかりやすく表現するならクーデターを起こして政権を転覆させることに繋がりますが、日本史のややこしいところは、そこに天皇や朝廷が絡んでいる点です。
例えば鎌倉幕府が滅亡した際、鎌倉は新田義貞に、そして京都六波羅は足利高氏によって襲われましたが、いずれも寄せ手となったのは幕府の御家人たちでした。彼らが執権・北条氏に不満を持ったから反逆したのか?となるとそうではありません。首謀者となったのが後醍醐天皇だったのです。
後醍醐天皇はかねてから幕府に不満を抱いており、「北条氏追討の宣旨」を諸国に発しました。新田や足利はそれに呼応したに過ぎず、幕府が武力で倒される結果となったのです。もし天皇が「幕府を倒せ」と命じなければ、鎌倉幕府はまだまだ続いていたかも知れません。
さて「討幕の密勅」も同様ですね。「密勅」とは天皇から出される内々の命令ですから、あくまで明治天皇が出したものとなっています。天皇から宣旨、あるいは勅令が出なければ反幕府勢力は官軍にはなりません。すなわち討幕を果たすには、天皇のお墨付きが必要だったわけです。
ところがややこしいのが室町幕府です。足利義昭が畿内から追放されたことで、実質的に幕府は終焉を迎えました。しかし義昭が毛利氏に保護されたことで「鞆(とも)幕府」なるものが存続するのです。
さらに毛利輝元を副将軍に据えたものですから、余計混乱してきます。室町幕府と分けて考えるものなのか?それとも全く別の幕府だったのか?評価は分かれるところでしょうか。
とはいえ、統治機構としての幕府は消滅していることもあり、実質的には天正元年(1573)の時点で終焉を迎えたと判断しても良いでしょう。
室町幕府滅亡が「倒幕」なのか?それとも「討幕」かは、これも判断に迷うところです。織田信長の武力で屈服しているから討幕と言えますし、義昭が殺されていない点で言えば倒幕と定義付けても良さそうな感じですね。
ただ室町幕府と鞆幕府が連続性のあるものとして見ていくと、最終的な結論は「自然消滅」だったのかも知れません。
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