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【やさしい歴史用語解説】「祇園祭」
- 2024/07/10
新型コロナウイルスの影響で長らく中止されていましたが、2022年7月に3年ぶりの開催となりました。また「鷹山」という山鉾が196年ぶりに復活したことが話題になったようです。
さて、祇園祭の歴史は古く、そのきっかけは猛威を振るった疫病だったといいます。貞観11年(869)、広大な庭園だった神泉苑に、当時の国の数にちなむ66本の鉾が立てられました。そして疫病を取り除くべく、八坂神社の神輿を迎えたことが始まりとなります。
当時は「亡くなった人が災いをもたらす」という御霊信仰が盛んな時代、疫病の流行も祟りのせいだと考えられていたのです。そこで「御霊会」という鎮魂の儀礼をおこなうことで、御霊の怒りを鎮めたわけですね。そのため祇園祭という名称ではなく、「祇園御霊会」と呼ばれていたそうです。
また、政治の実権を握っていた藤原氏にとっても、「御霊会」は社会を律するうえで好都合なものでした。怨霊を鎮めるべく多くの寺社を建立し、御霊会をおこなうことで藤原氏の権勢を世に示しました。また人々の不安を取り除くことが社会の安定へ繋がることを知っていたのです。
とはいえ、祇園御霊会が毎年のように開催されたわけではありません。災厄があった年に限られ、現在のように定期的に催されることはなかったようです。また元来は朝廷や貴族の祭祀ですから、庶民には縁遠いものでした。しかし時代の変遷とともに祇園御霊会から祇園祭へ移り変わり、さまざまな要素が加えられるようになりました。
その大きな原動力となったのが町衆の存在です。町衆とは商人や職人を中心とした自治組織を指し、京の町を運営するのに欠かせない人々でした。彼らが主役となって祇園祭は庶民の祭りへ変貌を遂げていくのです。
室町時代には巨大な山鉾が姿を現すようになり、祭りの規模も大きくなっていきました。また山鉾には美しい懸装品が数多く用いられ、国内だけでなく東アジアや中近東、あるいはヨーロッパの美術工芸の意匠が用いられたといいます。これは町衆たちの文化や経済力の高さを物語るものでしょう。
しかし京都は古くから戦乱が巻き起こる場所でした。祇園祭も影響を受けざるを得ず、過去に何度も中断に追い込まれています。古くは平治の乱、そして応仁の乱と、度重なる戦乱で存続の危機を迎えました。それでも京都の復興とともに祇園祭も復活を遂げ、たくましい町衆の息遣いを今に伝えています。
山鉾の美しさは「動く美術館」とも呼ばれ、2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。またクライマックスとなる山鉾巡行の日になると、国内外から多くの観客が訪れて大変な人出となります。祇園祭が開催される1ヶ月間、京都は1年でもっとも熱気に包まれるのです。
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