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【やさしい歴史用語解説】「仇(あだ)討ち」
- 2023/05/15
少々物騒な歴史用語ですが「仇討ち」とは、父母や兄など自分よりも上の世代の親族を殺された時、相手に復讐する慣習のことです。敵討ち(かたきうち)とも呼びますが、古くから記録として残っていて、日本書紀に書かれた「眉輪王の変」が最古の仇討ち事件だとされています。
やがて平安時代中期に武士階級が生まれると、仇討ちは血族意識の高まりとともに社会へと浸透していきました。やはり有名な仇討ち事件としては、日本三大仇討ちとされる「曾我兄弟の仇討ち(1193)」「鍵屋の辻の決闘(1634)」「赤穂浪士討入り事件(1703)」などが有名でしょうか。
まず「曾我兄弟の仇討ち」ですが、鎌倉時代の武士である曾我祐成・時致兄弟が、父親の仇だった御家人・工藤祐経を討ったという事件です。
この仇討ちは、源頼朝が挙行した富士の巻狩りの際に起こりました。父親の仇敵を追いつつ、多くの困難を乗り越えながら仇討ちを為し遂げたことで、のちの武士たちの模範になったとされています。仇討ちが武士のしきたりになっていく最初の事件でした。
次に「鍵屋の辻の決闘」は江戸時代初期に起こっています。岡山藩主・池田忠雄に愛された渡辺源太夫は美しい小姓だったのですが、河合又五郎という藩士が横恋慕しました。河合は関係を迫ったあげく、拒絶されると源太夫を殺してしまいます。そこで源太夫の兄・数馬は剣豪として名高い荒木又右衛門に助太刀を依頼し、逃げる又五郎を鍵屋の辻で討ち取りました。
この事件で「仇討ちを遂げるのは武士の本望」という観念が完成し、これ以降は仇討ちの記録が急増していくのです。
最後の「赤穂浪士討入り事件」ですが、これは肉親や親族を殺されたわけではありません。しかし理不尽に切腹を余儀なくされた主君・播磨赤穂藩藩主の浅野長矩を思い、家臣の大石良雄らが艱難辛苦のあげく、仇敵・吉良上野介を討ち取りました。この事件によって仇討ちは「忠義」を表す美徳と化し、武士だけでなく庶民の喝采すら浴びたのです。
江戸時代の仇討ちは幕府公認の制度となり、正式な許可こそないものの庶民による仇討ちも記録されています。とはいえ勝手におこなうことは禁じられており、そこにはきちんとしたルールがあったようです。
まず同じ親族であっても、妻子や弟・妹が殺害された場合には、基本的に仇討ちは認められませんでした。
また、討手は藩や代官所へ届け出る必要があります。その理由が幕府によって検証され、仇討ちが認められた時に帳簿へ記録されました。そうした手続きを踏んだうえで、討手は初めて藩を離れて移動できたのです。
ちなみに討手と仇人は「恨まないこと」が原則で、仇人の遺族が討手に仇討ちをする「重敵」や、返り討ちにあった討手の遺族が仇討ちをする「又候敵討ち」は禁止されていました。さらに仇討ちを禁じられている場所もあり、屋内や寺社仏閣での仇討ちはご法度だったそうです。
仇討ちのレアケースとして、討手が女性や子供になることもありました。ただ仇を討つことが難しいため、助太刀として他者の力を借りることが認められていたとも。
秩序や道徳を重んじる幕府にとって、仇討ちの制度は都合の良いものでした。仇敵を倒すことは敬愛する人間に対する忠義心や忠孝心に通じ、つまり主君と家臣、親と子という上下の秩序を保つには絶好のイベントだったわけです。
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