※ この記事はユーザー投稿です
【やさしい歴史用語解説】「足軽」
- 2022/03/14
室町時代中期に足軽の存在がクローズアップされてきますが、この時代の足軽といえば最下層の庶民が主役です。諸国の軍勢が京都に集まった応仁の乱では、とにかく相手より兵力が必要となります。そこで着目されたのが京都にいた流民たちでした。
彼らは地方での貧しさから大都市へ流入していたのですが、「仕事を与える」という名目で足軽となります。とはいえ戦いのプロではありませんから、敵の後方攪乱や補給路の遮断といった役目に重きを置いていました。屋敷や寺社の柱や建材を略奪しては、砦などの部材として使っていたようです。
やがて戦国時代になると本格的な足軽が登場しました。
農業がヒマな時期に農民を動員することもあったようですが、桶狭間の戦いや第四次川中島の戦い、厳島の戦いなどは、収穫間近の秋に起こっています。これは何を意味しているのでしょうか?
実は戦国時代の農村分類には「軍役衆」と「百姓衆」の二つに大きく分けられるでしょう。
百姓衆の名主は「年貢を多く納める代わりに徴兵を免除して欲しい」と主張します。
軍役衆の名主は「足軽を多く出すので年貢を減免してほしい」と主張します。
こういった形で農業生産を維持しつつ、合戦のための兵力を確保していました。農繁期(のうはんき)であっても合戦がおこなわれた理由は、軍役衆の農民たちを動員できたからに他なりません。
過酷な戦場生活を送る足軽にとって、最大のご褒美といえば略奪。いわゆる乱妨取りが黙認されていました。もし略奪を禁じたなら足軽たちはやる気をなくし、士気に影響が出るでしょう。足軽たちに十分な給与や褒美を与えられない以上、そのような形で特権を認める必要がありました。それが略奪行為だったわけです。
とはいえ、行き過ぎた略奪を禁じるケースもありました。敵地とはいえ徹底的に地域を破壊すると、せっかく手に入れた土地も復興できなくなるからです。戦国大名は禁制を頻繁に出しては、やり過ぎを諫めたということですね。さらに時代が下って信長・秀吉の時代になると、地域安定の必要性から略奪はタブーとなりました。
豊臣秀吉が天下人になると、全国に検地・刀狩りを命じて「田畑を作らない者は農村から排除する」という方針が固められました。農村で暮らしていた足軽も、今後は大名に仕えるようお達しが出たわけです。
それが嫌なら農業に従事すれば良いわけですから、「武士になるか?」「農民となるか?」この二者択一が与えられたと言えるかも知れません。また農業に従事しながら武士身分を保つ「郷士」という者もいました。
武士とはいえ足軽ですから、身分は最下層です。江戸時代になって身分統制が進んでくると、ますます足軽たちの地位は低くなりました。帯刀こそ許されたものの、外出時には下駄ではなく草履でなくてはいけないとか、袴を履いてはいけないなど、数々の制約があったようです。
また待遇も決して良いものではありません。庶民と変わらない足軽長屋に住み、日々の食べ物は質素そのもの。それでも水戸藩のように、足軽でもれっきとした藩士として扱われることが多かったそうです。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄