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【やさしい歴史用語解説】「関所」
- 2023/09/15
交通の要衝に置かれ、通行人や物資の通過を検査する関門が「関所」です。設置された主な目的は下記のようなものでした。
・治安維持
・関銭の徴収
・防衛のため
もっとも古い時代に確認できる関所としては、646年に発布された「大化改新の詔」で、鈴鹿・不破・越前に関塞(せきそこ)を置くことから始まったといいます。ここで言う関塞とは「ふさぐ」という意味ですから、防衛が主な目的でした。また古代律令制の下では、民衆を土地に縛り付けることが原則だったため、逃亡を防ぐ意味合いもあったそうです。
そして鎌倉時代以降の関所は、関銭(通行料)を払わなければ通ることができない所となり、地域支配の経済基盤となったようです。
ちなみに戦国時代になると、関所が全国的に急増していきました。これは治安維持と関銭の徴収に主眼を置いたもので、たとえば伊勢神宮へ至るまでに50数か所もの関所があったそうです。関所を通過するごとに関銭を取られるため、参拝客の大きな負担となりました。10人に1人が伊勢神宮へたどり着けなかったとも。
やがて信長・秀吉の時代を迎えて政治が安定してくると、経済活動を阻害する関所は無用の存在となり、大幅に削減されていきます。また江戸時代に入ると江戸を防衛する目的が生じ、箱根や関宿など交通の要衝に関所が設置されるようになりました。
特に幕府が目を光らせたのが「入鉄砲、出女」という言葉があったように、女性の移動です。「出女」とは江戸にいる大名の妻子が国元へ戻ることを禁じたもの。もちろん大名の謀反を防ぐためでした。
また「入り女」についても厳しく制限されていたようです。子供を産むのは女性ですから、もし自由に移動を許せば地域の人口が減ってしまう恐れがあります。例えば他の地域へ女性が嫁いだ場合、本来生まれるべきだった子供が生まれないことになります。ひいては藩の農業生産力の低下を招き、そのぶん税収が減ってしまうでしょう。だからこそ幕府や諸藩は女性を土地に縛り付けようとしました。そして関所によって厳しく監視していたのです。
ちなみに男性が関所を通過する際に、「関所手形」は必ずしも必要ではありません。「往来手形」さえ持っていれば、たいていは通過できたそうです。往来手形とは名前・住所・身分を記したパスポートのようなもので、名主や家主、あるいは檀家寺などが発行していました。
ところが女性ですと往来手形を持っているだけではダメで、「女手形」と呼ばれる関所手形が必要です。そこには女性本人の名前・住所・身分などの他に、出発地と目的地、同行者や乗物についても記載されていました。さらに有効期限まで設定されたといいますから、かなり厳格な基準だったことがうかがえます。
関所という歴史用語を取ってみると、当時の女性がどのような立ち位置だったのか?少しわかるような気がしますね。
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