意外に高クオリティな日本最初のお札 実は民間発行だった!?
- 2024/01/22
日本で最初に発行された紙幣は、中央政府ではなく民間が発行したものです。主に江戸時代に発行された藩札や寺社札と呼ばれるお札ですが、意外にも高クオリティで、偽造防止にもいろいろ工夫を凝らしていました。
日本の紙幣のスタートは民間発行のお札だった
現在藩札と言えば、主に江戸時代に各藩が領内での流通を想定して発行したお札の事を指します。しかしこれ以外に寺社が発行した寺社札や、現代の地域通貨のように地域で発行した町村札・大商人が発行した商人札など、江戸時代には全国で何種類ものお札が発行されていました。これらは中央政府が発行したものではありませんが、財力と信用の裏付けがあれば発行・流通が可能でした。
印刷技術や製紙技術との関係で、どこの国でも紙幣の誕生は硬貨より遥かに遅い時代です。紙と印刷を発明したとされる中国でさえ、紙幣が登場したのは1000年ごろの北宋時代、現在の四川省成都で発行されたものです。その頃の日本は紫式部や清少納言が宮中で活躍し、藤原道長が太政大臣に昇った頃でした。この紙幣は表面に皇帝の印と財務大臣に相当する役人の署名が朱色で記されており、使う時に裏面に金額を書き込む小切手のようなものでした。
記録に残る日本でのお札の初発行は、伊勢神宮の所領内で室町時代の中頃から流通していた“山田羽書(やまだはがき)”と呼ばれるものです。これは伊勢山田の商人たちが“三方会合所(さんぽうえごうしょ)”と言う自治組織を作り発行したもので、金貨や銀貨との交換が保障された信用の高いものでした。
このように日本最初のお札は中央政府が発行したものではありません。山田羽書は商人たちが重くてかさばる硬貨を嫌って発行したのですが、たいへん信用があり伊勢神領の周辺地域でも流通していました。
山田羽書の仕様
現存する最古の山田羽書は慶長15年(1610)ごろのもので、縦225mm✕横40mmの短冊形をしており、用紙は厚手の楮製。表面に金額を墨書きし、裏面最上部に大黒天の図柄を描き“銀丁”の文字入り、下部には発行した組を顕わす印章が押されています。その頃、流通していた銀貨の切り遣いが禁止され、端数金額を処理するために発行されたとも言われます。※参考:伊勢河崎商人館HP 山田羽書
参考にした明の紙幣は桑の皮を原料とした随分大きなものでしたが、取り扱いに便利なように日本ではこのサイズと素材が使用されます。この紙幣は明治になるまで250年間もの間使われていました。
初めて藩札を発行したのは福井藩
では最初に藩札を発行したのはどこの藩だったのか。通説では寛永元年(1661)越前福井藩発行のものが第一号と言われます。これは縦158mm✕横48mmの短冊形で、表面上部には宝珠が、中央部に金額が大きく墨書きされ、下部には発行元の両替座の2人の商人の名前が印刷されています。裏面上部には恵比寿様、中央部に福井の文字、下部には馬の絵が印刷されました。
藩札の多くには弁財天・布袋・大黒など、めでたい神々の姿や、龍・鳳凰・鶴亀・打ち出の小槌などの宝物、瑞雲・松竹梅・祝い餅など、ともかくめでたい吉祥文様が描かれました。文字には神代文字や梵字・オランダ語・意味不明な文字や隠し文字を使い、偽造防止に務めます。
福井藩を皮切りに、その後続々と全国の藩や旗本・寺社が財政難乗り切りのため、経済活性化のため幕府の許可を得てお札を発行します。1700年代には尾張・備前・播磨・摂津・肥前・出雲などの各藩が領内で通用する藩札を作っており、明治4年(1871)に新政府が藩札を回収した時には、224もの藩、14の代官所領、9の旗本領、合計1694種類もの藩札が発行されていたそうです。
偽造防止に苦心
これら紙幣の用紙には楮を主体とする丈夫な和紙が使われ、製造元は摂津の名塩村・越前の五箇村・美濃の岐阜など紙の名産地に集中しています。中でも名塩の“泥入り鳥の子紙”は有名で、製紙職人たちは誓紙を入れて、用紙の製法の秘密を守る事を誓約させられました。用紙の中には透かしを入れたり色を付けたり、表面に柿渋を塗ったりなど、偽造防止に努めます。また、印刷は柘植や桜の板を版材にした木版印刷でしたが、彫りを緻密に彫刻できる “御銀札彫刻師” と呼ばれる専門の職人が細かな図柄や文字を彫りました。版木は2つか3つに分けられ、勘定担当の奉行がそれを預かり、全員が集まって初めて印刷が出来るようにしてここでも偽造を防ぎます。
ほとんどが木版あるいは銅版の黒一色刷りでしたが、中には朱色を使ったものもあり、鳥取藩では「この朱色は鶴の血を使ったものだ」と言い立てます。
信用された藩札もあった!
基本、藩札は発行元の領内だけで通用するものですが、例外もあります。三河国、松平藩の出先機関だった泉堺長沢用所発行の “長沢産物手形” は信用が高く、近畿一円でも通用しました。 藩札の典型のような図柄で、表面上部には宝珠や大黒天・弁財天の緻密な絵、中央部には銀三匁のように金額と解読不可能な神代文字、下部には発行所名と双龍と宝物の絵を描きます。裏面上部には鶴が舞う姿や若松、中央には金額と発行年を、下部には産物会所や役人の名前が印刷されています。表と裏には黒・赤・青の印章が押され、墨書きも施しと入念に偽造防止対策を行なっていました。
このように幾重にも偽造防止策を施すという事は、それだけニセ札が横行していたってことですね。
江戸時代を通じて徳川幕府はわずかな例外を除き、紙幣は発行していません。金貨・銀貨・銅貨の鋳造のみです。庶民は大判・小判など目にすることもなく、銅銭と藩札・各地の寺社や商人が発行した私人札を使って暮らしていました。
おわりに
日本で初めて中央政府が発行した全国で通用する紙幣が発行されるのは、慶応4年(1868)5月の明治政府発行太政官札を待たねばなりませんでした。【主な参考文献】
- 吉田公一『ニセ札鑑定人の贋金事件ファイル』主婦と生活社/2021年
- 植村峻『お札の文化史』NTT出版/1994年
- 国立印刷局HP お札の歴史
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄