「 SSAWS 」その昔、東京湾岸はスキーリゾートだった!?

スキードーム・SSAWSの建物全景(2003年9月撮影、出典:wikipedia)
スキードーム・SSAWSの建物全景(2003年9月撮影、出典:wikipedia)

 潮が引いて露出した砂や泥の上で、水鳥たちが小魚を啄む。辺りには磯の香が濃厚に漂う。谷津干潟は東京湾に唯一残るラグーン。1993年にラムサール条約にも登録されてからはいっそう保護も手厚くなり、変わらぬ景観が保たれている。

 戦前はこの干潟に隣接した場所に、東京近郊でも有数の規模を誇る遊園地があった。プロ野球のジャイアンツが遊園地内のグラウンドで結成され、ベーブルースを擁するメジャーリーグ選抜との親善試合が行われたという。

 そんな面白い歴史の現場でもある。

谷津干潟
谷津干潟

 で、ここからが本題なのだが。私がここを初めて訪れたのは、条約登録から間もない90年代前半の頃だった。干潟の西方に目を向けると、いまは高層マンションが見えているあたりに、鉄骨で組まれた巨大建造物が夕陽に映えて輝いていた。

 アクロポリスの丘に鎮座するパルテノン神殿みたいな感じで神々しくもあり、谷津干潟の景観よりもむしろ、そちらのほうの印象が強く残っている。

 「あれが SSAWS か!」

 と……興味津々に眺めたものだ。

 なにしろ、当時はテレビや雑誌でもよく紹介されて、東京ディズニーランドよりも注目度の高かった場所だけに。

首都高湾岸線でも〝スキー渋滞〟が起きていた

 SSAWS とは「Spring Summer Autumn Winter in Snow」の略で、1年中スキーが楽しめるという意味。谷津干潟がラムサール条約に登録されたのと同じ年に完成した世界最大の屋内スキー場である。

 館内の温度は真夏でも氷点下3〜4度に保たれ、人工降雪機がフル稼働していた。長さは500メートル、幅100メートルの巨大ゲレンデなだけに、電気代とかのコストはかさむ。また、総工費も400億円と莫大。これだけの予算があれば、タワマンが10軒は建ちそうだ。

 SSAWS は最初から10年程度使って取り壊す予定だったというから、年間40億円以上は稼がないと建設費がペイできない。それにくわえて管理維持費や人件費もかかる……が、それでも黒字化できる自信があったのだろう。

 金銭感覚はまだバブル。栄光の時代が永遠に続くと信じていた頃なだけに、企業のサイフの紐はゆるかった。

 料金は平日でも5900円、2時間を超過すると割り増し料金も発生する。スキーやウェアをレンタルしたりすれば、すぐに1万円以上になってしまう。そんな強気の料金設定でも、年間入場者数が100万人を超える盛況だった。企業だけではない。人々の金銭感覚もいまとはかなり違う。

 また、当時は空前のスキーブームでもある。若者たちの冬の話題はスキーが半分以上を占めていた。現代ほどに趣味が多様化していない。テレビもスキー関連のCMがやたら多く、ユーミンの「サーフ天国、スキー天国」や広瀬香美の「ゲレンデがとけるほど恋したい」が耳について離れなかった。

 『私をスキーに連れてって』なんて映画もあったよなぁ。近場の湾岸にスキーできる場所があれば、毎週末にでも彼女をスキーに連れて行きそう。そんな時代だった。

 SAWSS のCMもテレビでよく流れていた。CMソングのタイトルは山下達郎が手がけた『湾岸スキーヤー』。後にジャニーズの少年隊がカバーして1998年長野オリンピックのイメージソングにも採用された名曲である。

 当時の首都高速湾岸線は歌のタイトルそのままの眺めで、ルーフキャリアにスキー板を乗せたクルマがあちこちに見かけられた。真夏の時期でも、サーフボードよりもスキー板のほうが多かったような。CMといえば、近隣にあるディズニーランドも危機感を覚えたのだろうか。「スキーよりミッキー」と叫ぶCMが流れていたのもこの頃だ。

 そうそう、当時は SSAWS のすぐ近く津田沼にも、やや小ぶりになるが「スキーイング津田沼」という屋内スキー場があった。こちらのほうが SSAWS よりもオープンは2年ほど早かったはず。

 隣接地域に屋内スキー場が2カ所もある東京と千葉の県境地帯は、ちょっとしたスキーリゾートといった感じ。この他にも、1996年には神奈川県の八景島シーパラダイスや箱根ピクニックガーデンにスノーボード専用ゲレンデが開業するなど、90年代中盤の首都圏は屋内や人工降雪のスキー場の開業ブームだった。

 しかし、これも燃え尽きる前のローソクみたいなものか? じつは、スキー人口は SSAWS 開業の1996年の1860万人がピーク。その後は減少に転じ、10年後にはほぼ半減している。

 客足が遠のいて天然雪のスキー場が閉鎖が相次ぐようになる。莫大な維持費を要する屋内スキー場は経営がさらに難しい。SSAWS もまた10年間という当初の予定を1年早めて、2002年9月に営業を終了している。

浮かれた時代の記憶は、すべて弾けて消えて……

 さて、SSAWS の跡地はいまどうなっているのだろうか?

 JR京葉線の南船橋駅を降りて200メートルほど歩けば、当時そこには鉄骨で組んだ櫓の上にカマボコ型のスキードームが設置されていた。南船橋駅側が山頂部にあたり、その高さは約100メートルにもなる。近くに寄って見上げると、圧倒されるスケール感だった。

 いまその場所には、スウェーデン発祥の家具メーカーIKEA の店舗が建っている。

 SSAWS の広大な跡地には大型店舗を建設するゆとりが十分にある。また、IKEA の主流商品は組み立て式家具なだけに、クルマで来店して持ち帰るのが便利だ。実際、いまでは各地にある IKEA の店舗はどこも広い駐車場が完備され、大半の客がクルマで来店する。

 この地は首都高湾岸線に隣接しており、都内からクルマで来るには都合がいい。出店には最適の立地条件だった。

 2006年4月にオープンした IKEA 船橋は、自社店舗としてはこれが日本一号店。現在ブームになっている北欧デザインの震源地でもある。

 IKEA の店舗を左手に眺めながら、南方に向かって歩く。かなりの大型店舗ではあるのだが、それでも、全長500メートルにもなる SSAWS の規模と比べたらその半分にも満たない。その敷地面積はかつてのゲレンデ中腹のあたりまでだろうか。

 その先にある残り半分の土地、ゲレンデ中腹から裾野に至るあたりには高層マンションが林立している。谷津干潟から見えていたのもこれだ。こちらは IKEA 開業の翌年に完成したもので、総戸数600を超える大規模開発だという。

IKEAの南方にはマンション群がみえる
IKEAの南方にはマンション群がみえる

 そういえば、このマンション群とは道を挟んだ右側にも SSAWS とならぶ名所があった。いまは公園と屋内アイススケート場、物流倉庫になっているあたりは、かつて船橋オートレース場のあった場所である。

 昭和25年(1950年)に京葉線の線路を挟んだ反対側にある船橋競馬場に日本初のオートレース専用走路が開設され、それが昭和40年代になってこの地に移転してきた。ファンの間では「オートレース発祥の地」と呼ばれて親しまれていたのだが、人気の凋落による収入減や近隣住民からの騒音苦情により、2006年に閉鎖されている。

ふなっしーパーク。後ろには屋内アイススケート場と物流倉庫がみえる。
ふなっしーパーク。後ろには屋内アイススケート場と物流倉庫がみえる。
アイススケート場(アイスパーク船橋)と物流倉庫(MFLP船橋)
アイススケート場(アイスパーク船橋)と物流倉庫(MFLP船橋)
三井不動産アイスパーク船橋
三井不動産アイスパーク船橋

 しかし、発祥の地ならば記念碑のひとつくらい建っているだろう。と、公園を隅々まで歩いて探してみたのだが、痕跡はどこにもみつからない。船橋発祥のふなっしーのキャラクターはあちこちあるのだけど。まあ、こちらも最近はテレビでも見かけることがなくなり、そのうち昭和・平成遺産に登録しても良さそうな感じではあるのだが。

 さらに公園の奥のほうに行ってみると、フェンスで囲われて草木がぼうぼう繁っている一角がある。道を挟んである歩道も、ここだけ舗装もされず雑草に覆われていた。

浜松2丁目2号公園
浜松2丁目2号公園

 SSAWS やオートレース場の閉鎖後、大規模な再開発がされてから、この付近はどこも真新しい現代的な建造物が建ちならんでいる。公園や歩道もそれと見合うよう、1本の雑草も見逃さず小綺麗に整備されているのだが。なんか、ここだけは違う。違和感のある眺めだった。

2009年の航空写真。中央の縦長の建築物がSSAWS。その左にオートレース場があった。(出典:国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス)
2009年の航空写真。中央の縦長の建築物がSSAWS。その左にオートレース場があった。(出典:国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス)

 オートレース場が健在だった2009年の空中写真を確認してみると、当時からそこは何もない空地。それを避けるようにして、窮屈そうな形状をした施設が建っている。成田空港滑走路に残る末接収の土地に建てられた建造物がある状況と、どことなく似た感じ。ここも用地買収で揉めたりしたのだろうか?

 その理由はわからないのだけど……近辺で平成時代から変わらぬものといえば、このフェンスで囲われた空地だけ。あとは何も残っていない。一瞬で弾けて消えたバブル景気のように、あの時代に栄華を誇ったものたちは跡形もなく消え去っている。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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