「としまえん」日本で二番目に古かった遊園地が消滅。その名残を残す駅名もいずれ……

西武鉄道・豊島園駅出口と駅前広場
西武鉄道・豊島園駅出口と駅前広場

駅名の由来となった遊園地が消滅…

 西武池袋駅から豊島園行きの普通列車に乗る。平日の昼間だというのに、カップルや若い女性グループで席は埋まっている。車内には中国語やタイ語も飛び交う。外国からの旅行者も多いようだ。

 豊島園の跡地に「ワーナー ブラザース スタジオツアー東京 -メイキング・オブ・ハリー・ポッター」って、やたら長ったらしい名称の施設が開業したのは昨年6月のこと。それから半年以上が過ぎたが人気は衰えず。東京ディズニーランドや浅草とならんで、近隣アジアからのインバウンド集客でにぎわう東京の観光名所になっているようだ。

 終着の豊島園駅で降りると、ハリー・ポッターの世界はもうそこから始まっている。施設の開業にあわせて豊島園駅は新しく生まれ変わった。魔法学校の隣接駅であるホグズミード駅に似せて、ホームも大改装されている。赤く塗られた柱や駅名表示板、ベンチや電話ボックスなど、映画のシーンにあるような眺め。

 リニューアルされた駅の景観に上書き修正されて、かつての豊島園駅の記憶が薄れてゆく。唯一、当時を偲ぶことができるのは「豊島園」という駅名くらいだろうか。

 考えてみれば、この駅名の由来となった遊園地は、すでに40年以上前に「豊島園」ではなくなっている。昭和55年(1980)に平仮名の「としまえん」に変更しているのだから。しかし、

「豊島園……としまえん」

 言葉にすれば同じ。だから気にすることなく、この駅を降りて遊園地に行っていたのだけれど。

 駅名の由来となった遊園地が消滅してしまうと、なんかヘンな感じ。遊園地の豊島園を知らない世代が増えてくれば、同じ西武線にある大泉学園駅なんかと同じで謎の駅名になってしまうのだろう。そうなる前に「ホグズミード駅」とかに名称変更される可能性もある。

夏になるとよく見かけた、ヘンな CM もまた懐かしい

 豊島園駅の駅舎を出てすぐ。いまは駅前広場となっている場所に、遊園地のエントランスがあった。

改札を出たところにある駅前広場
改札を出たところにある駅前広場
プール施設は2022年頃より解体工事がはじまり、現在は消滅している。(出典:<a href="https://www.google.co.jp/maps">Googleマップ</a>)
プール施設は2022年頃より解体工事がはじまり、現在は消滅している。(出典:Googleマップ

 私が初めて豊島園に行ったのは80年代後半の頃。青とオレンジに塗られた装飾は、当時からすでに少し野暮ったい印象だったような。T シャツにサンダルといった普段着の人々もよく見かけた。

 バブル景気全盛期の頃である。大学生でもどこかに出かける時は、ローンで買ったデザイナーズブランドの服で着飾っていた。六本木あたりのディスコでは、厳しい服装チェックがおこなわれ、店の雰囲気にそぐわない客は入店拒否される。そんな時代に……ここは普段着で入れる、庶民が背伸びせずに普段のままくつろげる場所だった。

 東京で生まれ育っていれば、生まれて初めて行った遊園地が豊島園という人は多いのではないか? 練馬区民ともなれば、成人式の会場としても思い出深い場所だろう。

 聞いた話によると、大正15年(1926)に豊島園が開業した時、近隣には東武鉄道の経営する兎月園という遊園地があり、客の奪いあいによる共倒れを危惧されていた。

 そこで両者が協議して、お互い違った路線を打ち出すことに。兎月園は高級路線で大人のデートスポット、豊島園は子供向けのアトラクションを中心とした家族向けの庶民派遊園地になった。

 兎月園は昭和18年(1943)に経営不振で閉園したのだが、豊島園のほうは東京ディズニーランドという〝黒船〟の来襲にも屈することなく、浅草花やしきに次ぐ「日本で二番目に古い遊園地」として現代まで生き長らえている。

 やっぱり、子供を取り込むというのは強い。三つ子の魂は百まで。幼い頃の楽しい記憶は、時が経っても鮮明に残っている。それどころか、思い出は美し過ぎて……都合のいい脚色をしてしまったりもする。

 大人になってからも、妻や子供たちと一緒に豊島園へ。親子二世代で思い出を共有するにもおあつらえ向きの場所だ。ディズニーランドに行くよりは、お父さんのサイフにも優しいし。

 物理的にも雰囲気的にも、庶民的な遊園地ではある。しかし、施設のほうは気合いが入っていた。

 エントランスを入るとすぐ、いまは白い工事フェンスで囲われているあたりに広大なプール施設があった。延々と果てしなくつづくフェンスを見て、

「やっぱり、巨大な施設だったのだなぁ」

と、あらためて壮大な規模を再認識させられる。

園外の住宅街側にも白いフェンスが延々と続く(プール施設の南側に位置)
園外の住宅街側にも白いフェンスが延々と続く(プール施設の南側に位置)

 豊島園にプールが開業されたのは昭和4年(1929)のこと。競泳プールや婦人用プールなどを備えた東京でも有数の設備を誇り、昔から園の名物になっていた。

 戦後になると、名物のプールはさらに規模を拡張して設備を充実させてゆく。昭和40年(1965)には世界初の「流れるプール」が、昭和63年(1988)には世界最大級のウォータースライダー「ハイドロポリス」が開業されている。

としまえんのハイドロポリス(出典:wikipedia)
としまえんのハイドロポリス(出典:wikipedia)

「としまえんのハイドロポリスはぁ〜♪」

という歌にあわせて、渦巻きがぐるぐる回るだけのCM。あれは衝撃的だった。

「プール冷えてます」

ってな CM もあったよなぁ。身の丈に合わない生活してカッコつけていた時代に、開き直った正直者の誘い言葉がココロに響く。そんな感じで生きることができれば、どんなに楽か……肩肘張らず気楽に楽しめる場所。そうだ豊島園に行こう。そんな気分にさせられる。

 毎年夏になると増えてくる豊島園の CM 。ツボにはまって心待ちにしていた人、私の他にも多かったと思うのだが。それがテレビから消えてしまったのも、また、寂しい。

資産家が静養目的で土地購入 としまえん遊園地のルーツとは

 工事フェンスに囲まれたプール跡地を横目に石神井川を渡る。

 この川の両岸はかつて、藤田好三郎という人物が所有する土地だった。大川財閥の番頭格で樺太工業(後の王子製紙)専務など、10を越える企業の重役に名をつらねる資産家。自然に親しむことを好む風流人だったともいわれる。

 藤田は大正6年(1916)に自身の静養地として、プール施設のある石神井川南側1万2000坪の土地を購入したのだが。関東大震災の直後という時節柄、豪邸を建てるのも気が引ける。また、風流を好む人だけに、この素晴らしい景観のなかに人工物を建てるのはもったいない。そう思うようにもなった。

 当時、この地は豊かな森林に覆われた小高い丘陵。眼下には石神井川の流れが楽しめる。戦国期には練馬城と呼ばれる古城があった史跡でもある。その城を築いた豪族・豊島氏が遊園地の名の由来になっている。

 藤田は購入した土地を自然のままに残すことにした。そして、大正14年(1926)には新たな邸宅建設用地として石神井川北岸1万8000坪を手に入れるのだが。

 結局、こちらも庭園や植物園を造っただけで邸宅を建てることはせず、人々が自由に入れる公園として解放してしまう。これが豊島園の発祥。昭和2年(1927)には遊具なども設置して、正式に遊園地としての歴史が始まる。

 しかし、藤田は何がやりたかったのだろうか? よくわからない人ではある。

 そういえば、彼は当時の雑誌のインタビューで、

「風景を開発し盛んに外国人客を誘引せよ」

と、語っていた。石神井川の両岸に残る豊かな自然を目にして、なんか、閃いたのかもしれない。

 開園から97年、来日外国人でにぎわう現在の豊島園駅前の状況を目にすると……先見の明だったのかも、それは。

 藤田は昭和4年(1929)に樺太工業の横領事件にかかわって失脚し、その後は経済的にも苦境に陥ったようで豊島園も手放してしまう。昭和6年(1931)には競売にかけられ、所有者が転々となりながら、最終的には西武鉄道が経営するようになった。

城跡の遺跡よりもハイドロポリスを残して欲しかった

 石神井川を渡り、北岸にあったかつての遊園地主要部へ。

ワーナー ブラザース スタジオ
ワーナー ブラザース スタジオ

 現在、跡地の大半はワーナー ブラザース スタジオの施設で占められている。日本最古の回転木馬「カルーセルエルドラド」とか最恐の絶叫マシーン「フライングパイレーツ」など、かつてここにあったアトラクションはすべて解体撤去され、もはや見ることはできない。

 西側の一部は都立公園として整備された。石神井川沿いに遊歩道が設置してあり、そこからは対岸のプール跡地がよく見える。プール施設は最近まで放置されていたというが、現在はこちらも撤去されて工事が始まっていた。

2023年5月、跡地の西側に一部開園となった練馬城址公園
2023年5月、跡地の西側に一部開園となった練馬城址公園
石神井川沿いの遊歩道
石神井川沿いの遊歩道

 石神井川南岸一帯は、都立公園の一部である「練馬城跡の歴史エリア」になるという。ハイドロポリスがあった付近には、土塁や空堀など城跡の遺構が埋まっていることが発掘調査で確認されている。

 城跡の景観や遺構を保全するというのも、整備計画にはあるようだが……記憶にもない大昔の景観には、親近感も懐かしさも沸いてこないのだよなぁ。それよりも、ハイドロポリスを残して欲しかった。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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