「数寄屋橋」伝説の恋愛ドラマの舞台も、いまは地下深くに埋められて…
- 2022/12/23
恋愛ラジオドラマ『君の名は』
『君の名は』と聞けば、20〜30代の人には新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』が思い浮ぶだろう。だが、これから語る『君の名は』のタイトルには「。」がついていない。そこのところ、お間違えのないように。『君の名は』は、N H Kで1952年から2年間放送されたラジオドラマ。空襲の夜に出会った真知子と春樹はお互いひと目惚をして、半年後に同じ場所で会うことを約束する。が、再会は叶わなかった。
その後、ふたりはすれ違いを繰り返す。会えそうで会えないもどかしさ。現代の恋愛ドラマでもお約束の描写だが、この王道パターンも『君の名は』からはじまったという。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」
毎週木曜夜8時、このナレーションで放送が始まると、女性たちはラジオの前に釘付け。銭湯の女湯から客が消えるという伝説が生まれた。岸恵子の主演で三部作の映画となり、こちらも空前の大ヒット。また、1991年にはN H K連続テレビ小説にリメイクされて、最高視聴率34.6%を記録している。
ドラマのなかで、真知子と春樹が出会い、再会を約束した場所が数寄屋橋だった。
ふたりは再会を約束した数寄屋橋を幾度も訪れては、すれ違いを繰り返す。重厚な石造りの橋の袂に立つ真知子。彼女が悲しげに見つめる外濠川の水面には街の灯が煌めき、背景に日劇や朝日新聞本社など印象的な建造物が映る。ドラマの有名な名シーンだ。
しかし、いまはもうその眺めを目にすることはできない。川は首都高速の高架の下に埋められて、数寄屋橋も撤去されてしまった。いま同じ場所に立って周囲を見回しても、当時を偲ぶものは……数寄屋橋という地名以外には何も見あたらない。
橋は消滅してその地名だけが残った
数寄屋橋が架橋されていた外濠川は、その名の通り、江戸城外郭を囲う外堀として開削されたものだ。それは庶民と武士の居住区を分ける結界の役目も兼ねている。江戸の古地図を見てみれば、江戸城数寄屋御門と外濠川対岸の町人居住地の間に、数寄屋橋の存在が確認できる。 「数寄屋」とは茶道の境地を取り入れた建築様のこと。当時、数寄屋門の対岸にあった町人居住地には、江戸城中で茶の接待を担当した茶坊主たちが土地を拝領して住んでいた。彼らの職業柄もあってだろうか、拝領地には数寄屋造りの屋敷が建ちならぶようになる。そこから元数寄屋町の町名がつけられた。数寄屋橋や数寄屋御門も、この町名に倣って名付けられたものだという。
また、この付近に千利休十哲に数えられる茶道の達人・織田有楽斎の屋敷があったことから、こちらにちなんだ命名だという説もある。元数寄屋町側の橋周辺にあった空地は「有楽原」と呼ばれ、そこが有楽斎の屋敷跡だったというのだが。
どちらにしても、江戸時代から数寄屋橋がここに存在していたのは間違いない。
維新後に数寄屋御門は撤去されるが、数寄屋橋は残された。庶民にも開放され、ここを渡って外濠川を越える者が多くなる。数寄屋橋は人々に親しまれる身近な存在となり、周辺エリアも「数寄屋橋」と呼ばれるようになる。そして関東大震災後を経て、数寄屋橋と周辺の街並みは大変貌を遂げた。
江戸城数寄屋御門があったのは、現在の有楽町マリオンのあたり。また、元数寄屋町は数寄屋橋公園の周辺だった。つまり震災前の数寄屋橋は、晴海通りを斜めに横断するようにして架かっていたことになる。
震災後の帝都復興事業で、晴海通りの道幅は33メートルに大拡張されることになった。それにともなって、数寄屋橋も晴海通りに接続する方向に架け替えられる。銀座から日比谷に向かって一直線の延びる広々とした幹線道路、その一翼を担うにふさわしく大きく堅牢な石橋に造り直された。
新しい数寄屋橋が完成したのは1929年のこと。近代的な二重アーチのフォルム、橋の両サイドには広い歩道が確保され、要所には川面を眺める踊り場も設けてある。
これが『君の名は』の名シーンの舞台になった橋なのだが……震災前の数寄屋橋界隈を知る人は、変貌した橋や付近の景観に違和感や寂さを感じたはずだ。また、外濠川が健在だった頃を知る人が、現在の数寄屋橋交差点を眺めれば、それと似た感情が沸き起こるだろう。
川を埋めるというのは、関東大震災が生んだ発想かもしれない。
震災後の東京では、多くの堀や運河が埋められ消滅した。かつて江戸の物流を支えた水路も、陸上交通が発達した時代になると邪魔者扱い。震災で生まれた瓦礫の処分に困っていたこともあり、これを堀川に捨てて埋めてしまえば、交通渋滞の要因も解消できて一石二鳥ということか。
そして終戦の頃になると、空襲で焼き尽くされた東京には、震災の時よりもさらに大量の瓦礫が山積していた。ここで震災の教訓が活かされる。銀座の街を囲んでいた三十三間堀は瓦礫の捨場となり、1949年には完全に埋め立てられてしまう。
多くの橋が消滅している。この時はまだ数寄屋橋と外濠川は健在だった。かろうじて残っている昔懐かしい眺めは、戦前の情緒が楽しめる場所として親しまれた。当時の人々が『君の名は』に夢中になった理由のひとつには、ドラマの舞台が数寄屋橋だったということもある。
しかし、その数寄屋橋も1958年には消滅してしまう。この頃の東京はオリンピック開催にあわせて、都市インフラの整備が急ピッチで進められていた。首都高速道路の建設もそのひとつ。オリンピック開催が迫る状況では用地買収に時間をかけられず、ルートの約8割は私有地を避けて堀川の上を通るように設計されている。
数寄屋橋の架かる外濠川の上にも首都高速のルートが設定され、埋め立てが急ピッチで進められた。現在、数寄屋橋があった場所には、晴海通りを跨ぐようにして「新数寄屋橋」と名付けられた首都高速の高架橋が架かっている。人が歩ける橋ではない。クルマで一瞬のうちに通り過ぎてしまう橋は、ドラマの舞台にはなり得ない……。
結界の消滅で「銀座」の侵食が始まる
「数寄屋橋 此処にありき 菊田一夫」と、刻まれた碑が数寄屋橋公園の入口に立っている。菊田一夫は『君の名は』の脚本を手がけた劇作家。この碑がある場所は、かつての数寄屋橋の袂のあたりだろうか。
橋が健在だった頃、このあたりには『君の名は』のヒロイン真知子を真似てショールを頭からかぶり、その端を首に巻き付ける“真知子巻き”スタイルの女性が大勢出没したという。橋の袂に立って有楽町の方向を眺めると、かつて「軍艦ビル」と呼ばれた朝日新聞社屋が川面に浮かぶように聳え、隣にはアールデコ調の優美な曲線を描く日劇がある。映え狙いには絶好の場所だった。
朝日新聞社屋や日劇があった場所には、現在、有楽町マリオンが建っている。正式名称は有楽町センタービル。1984年の開業当初は西武デパートがテナントに入っていた。当初は「西武銀座」の店名になる予定だったという。しかし、これに銀座の小売業者たちが猛反発、仕方なく「有楽町西武」の名称に落ち着いた。
80年代の西武といえば、和服姿のウッディ・アレンをテレビCMに起用した「おいしい生活」のキャッチコピーを思いだす。1982年には池袋西武本店が売上高で日本一になり、大衆消費文化を象徴する存在だった。
しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いだった当時の西武でも、老舗デパートが軒をつらねる銀座では新興の三流扱い。「銀座」を名乗ることを許されなかった。また、立地的にも銀座というのは無理がある。
数寄屋橋を渡れば、もうそこは銀座ではない。外濠川は銀座と有楽町を分かつ境界線だった。川という明確な線が存在していれば、西武も「銀座」を名乗ろうとはしなかったと思う。
そういえば、外濠川を埋めて作られた高架下のショッピングセンターも、その名称は「西銀座デパート」である。境界線上の微妙な位置。「数寄屋橋」「外濠」を店名にしたほうがより正確な感じもするが、商売には「銀座」の名がなにかと有利なのだろう。
数寄屋橋や外濠川の消滅で境界線が曖昧になったことで、銀座の領域は拡大する。
もはや数寄屋橋は銀座の一部か!?
地中に埋る外濠川をトレースして、緩やかなカーヴを描く首都高速道路の高架。その下に『銀座の恋の物語』の歌碑がある。ここにも「銀座」の侵食が見てとれる。 『銀座の恋の物語』は石原裕次郎と松村旬子のデュエットで1961年にシングル・レコードが発売されて、300万枚を超えるミリオンセラーとなった曲。翌年には浅丘ルリ子との共演で同名の映画も公開されている。
気になったのは、歌碑が設置してある場所だ。外濠川をまだ越えてないから、ここが銀座で間違いはない。が、有楽町との境界線ぎりぎり。外濠川が健在の頃ならば「銀座」というより「数寄屋橋」と呼ばれていただろう。そして、数寄屋橋を舞台にした恋の物語といえば『君の名は』のはずなのだが。
『銀座の恋の物語』の後にも、銀座を舞台とする恋歌や恋愛映画が次々に発表されている。昭和30年代後半から40年代にかけての銀座は、恋の物語を描くには欠かせぬ場所になっていた。
数寄屋橋界隈もまた、そういった「銀座」の恋の舞台の一部として描かれたりしていた。新しい恋の物語に上書きされ、昭和の名作ドラマの記憶は薄れてゆく。いまスマホで「君の名は」を検索しても、ヒットするのは「。」のついたアニメ映画のほうばかり……高速の高架下に埋まる橋や川と同じで、いまどきはすっかり忘れられた感がある。
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