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【やさしい歴史用語解説】「天守」
- 2022/05/23
一般的には「天守閣」とも呼ばれますが、歴史用語としては「天守」のほうが広く用いられるようです。また読み方は同じでも「天主」や「殿主」と書くケースもありますね。天守とは城を象徴するシンボルであり、同時に優れた防御施設でもあります。敵の接近をいち早く発見する望楼としての機能も持ち合わせているため、平時と戦時に応じて役割を変えるのです。
日本で初めて天守が姿を現したのは戦国時代たけなわの頃。伊丹城や多聞山城だったとされていますが、詳細な絵図などの史料がないためわかっていません。やはり本格的な天守の登場は、織田信長の安土城を待つことになります。
安土城の場合は防御の城というより、信長自らの権威を誇示するための城ですから、豪華絢爛さを大きく打ち出した魅せるための天守だったことがわかります。
さらに安土城をモデルに発展させたのが、豊臣秀吉の造った大坂城です。その天守は外観5層で、飾り瓦や軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用いたといいます。自分こそが信長の後継者にふさわしいことを誇示したのでしょう。
ちょうど秀吉時代には、瓦に金箔を貼った天守が数多く現れました。伏見城・聚楽第・大和郡山城など、秀吉と関係が深い城郭の天守には、そんな豪華な瓦が用いられたことが知られています。
何より驚きなのは、徳川家康の居城である駿府城から金箔瓦が発見されたことです。実は天正から文禄期にかけて豊臣臣下の中村一氏が在城していたことがあり、その時に豊臣期天守が築造されました。秀吉は金箔瓦の使用を独占から許認可制へと変化させたようで、おそらく早くから秀吉の家臣だった一氏に使用をゆるしたのでしょう。
やがて江戸時代になると、徳川氏による天下普請と相まって全国に近世城郭が築城されました。また築城技術がさらに発展を遂げて大型の天守が数多く造られます。現在見られる松江城・松本城・彦根城といった現存天守も江戸時代初めに築かれました。
しかし日本の城郭史においてエポックメイキングが起こります。それが慶長20年(1615年)に出された「一国一城令」です。城の数は一つの国に一つと定められ、もちろん例外はあったものの、ほとんどの城郭が姿を消しました。約3千もあった城がわずか170にまで数を減らしたのです。
また新しい築城が禁じられたこともあり、天守が建てられることは江戸時代後期まで待たねばなりません。
さらに明治時代に入ると日本の城は無用の長物となりました。不要となった天守は維持費も掛かるため売却され、どんどん取り壊されていきます。こうして文化遺産である天守の多くは姿を消し、今では往年の姿のままの現存天守は全国に12しかありません。
とはいえ昨今ではお城ブームに火が付き、多くの歴史ファンが城に関心を持つようになりました。またいくつかの自治体では、かつてあった天守の姿を取り戻すため、木造による天守復興を計画しているようです。
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