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【やさしい歴史用語解説】「国人」
- 2024/07/10
少し話がややこしくなるのですが、かつて鎌倉幕府は支配権を全国へ及ぼすため、各地に「守護」「地頭」を置きました。ちなみに当時の守護は警察組織のようなもの。地頭は土地管理を担った役人のようなものでしょうか。
次第に彼らは任地に土着するようになり、その土地の農民たちを支配体制の中へ組み込んでいきました。やがて土地を押領しつつ国人領主化し、小さな地方自治体のような形で地域支配を進めていくのです。
室町時代になると諸国へ守護大名が配置されますが、国人たちは守護と主従関係を結んでいきます。いわば守護が国人の生活を保証してくれる代わりに、国人は軍事力を守護のために提供しました。
主従関係といっても鎌倉時代のような「御恩と奉公」といった関係性ではありません。ややもすれば自立性の強い国人層は、守護大名と対等な立場にあったことも知られています。
もし守護大名が国人たちの権利を脅かし、国を治める責務を全うできないと判断された場合、国人たちは一致団結して実力行使に踏み切りました。それが「国一揆」と呼ばれる武力行使です。
赤松氏に抵抗した「播磨国一揆」、畠山氏と対抗した「山城国一揆」などが知られていますが、特に山城国一揆では、畠山兄弟の身勝手な家督争いで地域が荒廃したこともあり、国人たちが守護を国外へ叩き出したことで有名です。
そんな関係性は守護大名が築いた城郭でも見られます。ちなみに織田信長が築いた小牧山城や安土城を見る限り、信長の居所は最上部にあって家臣団の屋敷を見下ろす形です。これは身分格差を視覚的に見せつけたものでした。ところが能登畠山氏の七尾城、あるいは六角氏の観音寺城では、大名の居所と家臣団の屋敷が同じ高低差の場所に存在しているのです。これは大名の優位性がさほどでもないことを表しています。
実際に畠山氏は国人出身の重臣によって傀儡化され、六角氏も観音寺騒動が起こって大名権力が衰退するなど、国人の実力は相当なものだったようです。
ところが戦国時代もたけなわになってくると、国人の立場も変化していきました。戦国大名は富国強兵を目指す過程の中で、国人を家臣化することを進めていきます。これまでのギブアンドテイクの関係から、強い主従関係によって結びつきを深めようとしたからです。
それは戦国大名がおこなった政策を見れば明らかでしょう。土地から切り離して家臣を集住させたり、あるいは貫高制を採用して知行を分配するなど、大名主導の集権体制を築きました。
こうして徐々に家臣化された国人層は、戦国大名の強力な統制のもとで支配されたのです。
やがて安土桃山時代から江戸時代にかけて国人層は解体されていき、泰平の世を迎えると国人そのものが消滅しました。全国の武士にとって知行や俸禄が生活基盤となり、サラリーマン化していったのです。
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