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【やさしい歴史用語解説】「城割」

肥前名護屋城跡
肥前名護屋城跡
 城を造ることを「築城(ちくじょう)」と呼びますが、城を壊すことを「廃城(はいじょう)」といいます。とはいえ、「廃城」という言葉は現代語ですから、当時から使われていた言い回しではありません。実際は「城割(しろわり)」や「城破(はじょう)」と呼ばれていました。

 それでは城をなくす時、どんなケースがあったのでしょうか?

 まず単純に城が要らなくなったという場合でしょうか。敵が降伏したことで陣を構えていた砦が不要となったというのが代表例です。あるいは境目の城など、監視の役目を担っていた城がいらなくなったということもあるでしょう。

 多くは土を盛って削った城が多いですから、そのまま放置していれば、いずれ自然に還るだけです。また簡単な普請しか施していないため、壊すほどでもありません。

 次に居城を移した場合です。例えば関ヶ原の戦い(1600)が終わった直後、石田三成の旧領を与えられた井伊直政は佐和山城へ入りますが、交通の便の良さや城下町の整備を考慮した直政は、至近距離にある場所に彦根城を築かせました。

 この際、佐和山城は徹底的に破壊されるのですが、別に三成が憎くて壊したわけではありません。当時から建材や石材は重要なもので、一から手に入れようとすれば大変な予算が掛かります。そこで佐和山城を壊したうえで、使える建材や石垣を片っ端から持ち運んだのです。

※彦根城築城の際、建材と石材がほとんど持ち去られた佐和山城跡(wikipediaより)
※彦根城築城の際、建材と石材がほとんど持ち去られた佐和山城跡(wikipediaより)

 一説には近隣の安土城や八幡山城の資材も搬入されたといいますから、彦根城は各地の城の要素を取り入れたハイブリッドな城だったという見方もできますね。

 城割がおこなわれる場合、和睦の条件として提示されることもあります。小牧・長久手の戦い(1584)では数十にも及ぶ城や砦が築かれたものの、和睦の際に双方で取り壊すことが決められました。

 もっとも有名な事例としては、大坂冬の陣(1614)の際、大坂城の惣堀が埋められたことでしょうか。通説では徳川方の策謀だとされていますが、実際には双方の了解の下で堀の埋め立てや防御施設の取り壊しが行われていました。

 次に城の再利用を防ぐための城割です。軍事施設として再び使われることがないよう壊すのですが、城を完全に破壊するには時間も労力も掛かります。そこで城郭でもっとも重要だった石垣部分が崩されました。

 肥前名護屋城や原城などが代表例で、現在でも崩されて無残に残った石を見ることができます。

※島原の乱後、徹底的に破壊された原城(wikipediaより)
※島原の乱後、徹底的に破壊された原城(wikipediaより)

 最後に「一国一城令」があります。これは大坂の陣が終わった直後に江戸幕府が出した法令で、諸大名に対して居城以外の城を破却することを命じました。多くの大名は城を取り壊したものの、伊達氏や紀伊徳川家のように依然として複数の城を持つケースもありました。

※一国一城令で廃城となるも、のちに有馬氏の居城となった久留米城(wikipediaより)
※一国一城令で廃城となるも、のちに有馬氏の居城となった久留米城(wikipediaより)

 ちなみに城を取り壊した跡地には代官所や役所を設置するなど、地域支配のための行政機関が置かれるケースが多かったようです。

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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