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池田輝政の兄元助の意外な子孫とは?

池田元助の肖像(岐阜県揖斐郡本郷村龍徳寺所蔵、出典:wikipedia)
池田元助の肖像(岐阜県揖斐郡本郷村龍徳寺所蔵、出典:wikipedia)
池田元助は、信長の乳兄弟で重臣となった池田恒興の長男で、輝政の兄にあたる人物です。

1584年の小牧・長久手の合戦において、池田恒興・元助父子は戦死。池田家は弟の輝政が継いでいるのですが、実は元助には幼い息子が2人いました。この息子たちの系図をたどっていくと、意外な子孫があらわれてびっくり!今回はそれをご紹介したいと思います。

元助の息子たち

普通は、長男が亡くなるとその息子が後継ぎになるものですが、なぜ弟の輝政が池田家を継いだのでしょうか?元助の息子たちがまだ幼かったことと、おそらくは秀吉の命令だったのではと思います。

恒興と元助の戦死には、秀吉の甥である羽柴秀次(のちの豊臣秀次)のポカが関わっていることで、池田家のふたりの戦死については、秀吉はものすごく惜しみ、責任を感じていたようなのです。

元助の妻は、斎藤道三孫娘?

元助は20代前半、または26歳で戦死したのですが、尾張国犬山城で生まれた8歳の長男「由之」と、元助の戦死時にはまだ生まれていなかった「元信」という息子が残されました。

…で、由之の母は斎藤義龍の娘、あるいは伊勢貞良(正室は斎藤道三の娘)の娘といわれています。また、元信の母は、織田信忠の嫡男である三法師丸の母と姉妹です。

長男の由之は叔父輝政のもとで成長、次男の元信は母が秀吉の命令で関白一条内基の側室となったため、京都で育ち、後に大坂城の秀頼に仕えましたが、大坂の陣の前に退去して叔父・輝政に仕え、子孫は岡山藩の家老に次ぐ番頭として、3000石で明治まで続きました。

池田元助の略系図
池田元助の略系図

元助の長男は池田家の家老に

池田家を継いだ叔父の輝政は、姫路藩54万石をゲットした慶長6年(1601年)、24歳になった甥の由之に、播磨国佐用郡周辺の2万2000石を与えました。

由之は、佐用郡の平福に城下町を構えて、利神城を5年もかけて立派な3層の天守閣付きで改修、城下町も整備したのですが、叔父の輝政は、この城のあまりの豪華さにびっくり仰天、幕府ににらまれたら大変と、天守を壊させたということです。

叔父の姫路城を真似したんでしょうね。その後、由之は池田家の転封にともない、鳥取藩の米子城へ。

由之は叔父の孫になる幼君の光政を補佐したのですが、元和4年(1618年)に江戸から米子へ戻る途中、怨みを買って大小姓の神戸平兵衛に42歳で刺殺され、嫡男の由成が後を継ぎました。

由之の正室は、蜂須賀家政の娘

由之の子孫は「天城池田家」と言われ、備前天城領3万2000石を領する藩主一門の家老家となりました。
そして由之の正室は、万姫(即心院)といい、阿波徳島藩主蜂須賀家政の娘です。次男由英は玄寅(はるとら)といい、祖父家政に招かれて徳島藩の家老となり、蜂須賀姓を名乗りました。

そして従兄でもある2代藩主蜂須賀忠英の4男興龍を養子にし、のちにこの興龍の息子龍之が5代徳島藩主となったということで、家老家は実子の正長が継ぎました。

2代由成の娘が赤穂藩家老に嫁いで生まれたのが大石良雄

さて、前置きが長くなりましたが、由之の嫡男由成は3男6女に恵まれました。
そして末娘「熊子」が、赤穂藩永代家老家の嫡男大石良昭と結婚して生まれた長男が、あの赤穂義士の「大石内蔵助良雄」なのです。

ちなみに、大石良昭の母は水戸藩士鳥居忠勝の娘で、家康の側近だった鳥居元忠の孫です。
大石内蔵助、昼行燈とか、田舎の小大名の家老と言われることもありますが、曽祖父が池田元助と鳥居元忠なんて、なかなかの血統書を持っているのにびっくりしました。

なお、赤穂事件のとき、母方の親戚の岡山藩家老の池田家は、縁者(内蔵助の従兄が当主)だからと知行を2000石減じられたたというのも驚きです。

また、徳島阿波藩の池田正長にとって、内蔵助は従姉の子にあたるのですが、赤穂事件の頃は、浪人していた内蔵助に資金援助をしていたということで、内蔵助から正長には吉良邸への討入前日12月13日付で、永遠の別れを告げる「いとま乞い状」と呼ばれる手紙を書いているそうです。

まとめ

江戸時代になると、長男相続制がしっかりしてきましたが、戦国時代はまだ幼い息子が当主では、多くの家来を抱える武将の家では不安定だったのでしょう。

池田家は、隠居間もない父と長男が同時に戦死したのち、若いがしっかりした次男輝政が後を継ぎ、その後、家康の娘との結婚で大大名にまで発展しました。そして長男の幼い息子たちとその子孫は、輝政が面倒を見たものの家臣として叔父と子孫をささえる道を歩み、明治まで存続したのでした。

しかし歴史の表舞台から消えたと思いきや、意外な子孫が江戸時代に登場して名を残しました。昔は研究者しか知らなかったようなマニアックなつながり、系図がネット検索でわかる幸せ、そして女系がどんどんたどれていき、意外な話が待っている幸せ、またお届けしたいです。

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  この記事を書いた人
angelica さん
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持っています。 最近は、ネット検索でどこまでも系図をたどったり、 再評価された人物とか、新しい発見とかを見つけて 学び直すなど、改めて歴史を楽しんでいます。

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