「秀吉の紀州攻め(1585年)」紀伊国陥落!信長も成せなかった、寺社共和国の終焉

 甲斐、といえば「武田」。越後、といえば「上杉」。このように、戦国武将の多くは国や土地と直結したイメージで語られることが多いですよね。実際には長い歴史の中で、その武将だけが統治したわけではないにも関わらず、深く人々の記憶に刻まれたといえるでしょう。

 それとは逆に、土地名を聞いても戦国期に統治した武将がなかなか浮かびにくい国というのもあります。たとえば、「和歌山県」はどうでしょうか。江戸期以降でしたら徳川御三家の一角として有名ですが、戦国時代の和歌山はあまり知られていないのではないでしょうか。それには当時の「紀伊国」の特殊な事情があり、信長・秀吉と二代にわたる侵攻作戦が展開されていたのです。

 今回は天正13年(1585)に行われた、秀吉による紀州攻めにスポットライトを当ててみましょう。

合戦の背景

戦国期紀伊国の統治状況

 紀伊国の守護といえば室町幕府三管領のうち、「金吾家」の通称でも知られる「畠山氏」でした。

 畠山氏は紀伊以外にも河内や大和宇智など、畿内の重要地域を統治していましたが、中でも紀伊国の状況は複雑でした。それというのも、紀伊にはいくつかの強力な宗教勢力が存在し、自治の気風が確立されていたためです。

 「高野山」「粉河寺」「根来寺」「熊野三山」そして一向宗と深く結びついた「雑賀衆」などがその代表といえるでしょう。戦国当時のキリスト教宣教師であるルイス・フロイスもそのことに言及しており、高野・粉河・根来・雑賀については実名を挙げ、それらがある種の「共和国的」な姿をとっていたと記しています。

 比叡山の例でも有名なように、当時の寺社勢力は僧兵や神人(じにん)などの武装兵力を擁しており、武士といえどもうかつに手出しができないほどの勢力をもっていました。特に根来寺・粉河寺・雑賀衆は当時の最新兵器である鉄砲を大量に有し、周辺の戦国大名にとっても警戒を緩めることのできない存在感をもっていました。

信長による第一次紀州攻め

 いわゆる「紀州攻め」とは、織田信長による第一次の軍事行動に始まるとするのが一般的です。時をさかのぼりますが、その概要をざっとおさらいしておきましょう。

 元亀元年(1570)、信長と本願寺の間に石山合戦が勃発しました。一向宗徒としてのつながりから、本願寺の武装勢力には紀伊雑賀衆が多く参戦しており、信長はこれらの分断を画策。天正4年(1576)から翌年はじめ頃までの間に、完全な一枚岩ではなかった雑賀衆の一部と根来寺勢力を味方に引き入れた信長は、抗戦を続ける紀伊雑賀荘への直接攻撃を実行します。

 信長軍は雑賀衆に撃退される局面もありましたが戦線は膠着、同年に雑賀衆棟梁「鈴木孫一」らが条件付きで降伏したため、信長は陣を引き払いました。しかしその後も抗争は収まらず、天正8年(1580)からは高野山勢力との争いも激化。翌天正9年(1581)には安土城で高野聖数百人が処刑される事件が起き、信長軍が紀伊北部を東西に貫流する紀の川の北岸一帯に布陣しました。

 信長と高野山との間にどの程度の規模の戦があったかは詳らかではありませんが、小・中規模の戦闘が散発したことがわかっています。


反秀吉の方針だった紀州勢

 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が倒れたことにより第一次紀州攻めの陣は引き払われましたが、事実上信長の後継となった羽柴秀吉とも抗争は継続。先述の鈴木孫一らのように信長に恭順した勢力もありましたが、紀州勢の多くは反秀吉のスタンスを保っていました。

 天正13年(1583)、紀州勢との間に緊張感が表出してきたことで、秀吉は根来衆や雑賀衆などの備えとして中村一氏を岸和田城に配置。大坂南部の和泉と紀伊国境の守備を強化しています。

 天正12年(1584)3月に勃発した小牧・長久手の戦いは、「秀吉 vs 織田信雄・徳川家康連合軍」の戦いですが、これは主戦場となった尾張国だけでなく、関東・東海・中部・北陸・近畿・四国まで連動した広域に及んだ合戦の総称ともいえます。

 この戦いの中で、秀吉不在の大坂においては紀州勢の反抗戦も行われていました。和泉/紀伊の国境線を巡る一連の戦いは主に和泉国側で行われましたが、紀州勢が突出する形で大坂へのプレッシャーをかける局面も多くみられました。

 そうした中でも最終的に、秀吉軍は大坂・岸和田を守り抜き、天正13年(1585)にはついに紀伊国本土への本格侵攻を開始するのです。


合戦の経過・結果

千石堀城の戦い

 同年の3月、大坂城から先発隊として羽柴秀次が出陣、続いて秀吉も10万ともされる軍勢で出発し、岸和田城に入城しています。

 一方の根来寺ら紀州側は千石堀城、沢城、積善寺城、畠中城などを防衛線とし、鉄砲部隊と付近の百姓らとともに籠城して防戦体制に入りました。

千石堀城の戦いの要所マップ。色塗部分は和泉国。

 秀吉軍は3月21日より攻撃を開始。各城を攻めた秀吉側の隊はそれぞれ以下のとおりです。

  • 千石堀城:羽柴秀次・堀秀政・筒井定次・長谷川秀一など
  • 積善寺城:細川忠興・大谷吉継・蒲生氏郷・池田輝政など
  • 沢城:高山右近・中川秀政
  • 畠中城:中村一氏

 紀伊側の兵力の多くは、大量の鉄砲で武装した根来衆・粉河衆・雑賀衆などの寺社勢力でした。しかし3月23日までに紀州側の城は全て落城を余儀なくされています。

根来寺・粉河寺・雑賀荘の炎上

 同日、和泉の拠点を制圧した秀吉は休む間もなく岸和田城を発し、紀伊・根来寺(現在の和歌山県岩出市)へと進撃しました。和泉での防衛線を突破された彼らは、ほとんどなすすべもなく、秀吉軍に本拠地を攻撃されたと考えられています。

 当時、ある種の要塞都市的な景観だったとされる根来寺ですが、ほぼ無抵抗で制圧され、同日夜には炎上し、3日間燃え続けたといいます。

根来寺の大塔と大伝法堂
根来寺境内に再建された大伝法堂(右)、および当時の弾痕を残している現存の大塔(左)。(出所:wikipedia

 本堂・大塔・南大門など一部の建物を残して根来寺は焼失。ただし、兵火によるものか失火あるいは自焼かはわかっていません。同日、または翌日には粉河寺(現在の和歌山県紀の川市)も炎上しました。

再建された粉河寺本堂(和歌山県紀の川市粉河)
1720年に再建された粉河寺本堂(和歌山県紀の川市粉河)

 3月24日、根来を発した秀吉は西進して紀伊・雑賀荘へと進撃。しかし雑賀荘はその前に内紛により大混乱に陥っており、先行して23日に到着していた秀吉軍先鋒と秀吉本隊が合流し、各地に放火を行いました。

 地域の大半に兵火の被害を受けた雑賀荘は滅亡、内紛の激しさから「自滅」と評されることもあります。

第二次太田城の戦い

 秀吉軍が雑賀荘を攻めていたころ、雑賀衆の残党は太田城(現在の和歌山市)に籠城して徹底抗戦の構えを示しました。

第二次太田城の戦い関連マップ。色塗部分は紀伊国。

 大将は「太田左近」であり、在地勢力5000を率いての大規模な籠城戦となる見通しでした。ルイス・フロイスは太田城を評して「ひとつの都市」のようなものとしています。これは太田城が単独の要塞ではなく、周囲の町に水堀を巡らせた防御性の都市機能を有していたためです。

 なお、太田城を巡る攻防においては、これ以前にも信長の時代に第一次太田城の戦い(1577年)が繰り広げられています。実はこの時に信長方に協力していたのが先述した太田左近です。つまり、この戦いは同じ雑賀衆による、太田左近への報復戦でした。しかし太田城は堅牢で落城することはなく、最終的には和睦によって戦線は終息しています。

 そんな太田城を攻略するために秀吉が選択したのは「水攻め」でした。周囲を守る河川を利用し、堤防を築いて人口水害による消耗戦を仕掛けます。秀吉自身が総大将として指揮にあたり、副将に羽柴秀長・羽柴秀次を置くといういわば主力を挙げての作戦でした。

 3月28日に築堤を開始。途中で甲賀衆の担当箇所が決壊したことで、関係者を処分するという厳しい処遇での大工事となります。

 同年4月5日までの間には堤が完成し、総延長約7.2キロメートル、最大高約7メートルという巨大堤防が出現しました。現在では遺跡の中心部・出水堤の測量調査が行われており、それは基底部の最大幅が31メートルにもおよぶことが判明しています。

 太田城には防御用の「横堤」が築かれていたため、注水後もしばらくは城内への浸水を食い止めていましたが、4月8日ついに横堤が決壊。太田城が浸水されましたが、逆に水攻め用の堤防も一部が損壊し、宇喜多秀家勢に被害が出ました。

 このことに勢いづいた太田城方は頑強に抵抗を続け、4月21日には小西行長率いる水軍戦力が直接攻撃を敢行します。城方は果敢に応戦しましたが、この被害によりそれ以上の抗戦を断念。翌22日に降伏しました。

 城内の主だった者とその関係者以外の農兵らは赦免されましたが、農具以外の武器は没収のうえでの解放でした。これは史上初の「刀狩」ともいわれています。

紀南地域の制圧

 秀吉軍が雑賀衆残党の掃討作戦を展開する一方で、別動隊も紀南方面への進軍を開始しており、紀南地域の制圧に乗り出していました。

 紀南には「湯河氏」「神保氏」「白樫氏」「玉置氏」などの強力な国人衆が存在していましたが、彼らもまた一枚岩ではありませんでした。

 秀吉軍からは「仙石秀久」「中村一氏」「小西行長」らの精鋭が出動し、4月13日までの間には主に熊野地方で徹底抗戦にあうなど苦戦する局面もありつつ、在地勢力の多くを帰順させています。

高野山の降伏

 このほか、高野山に対しても、秀吉は同年4月10日に使者を派遣して降伏勧告を行っています。

高野山 壇上伽藍
高野山 壇上伽藍(和歌山県伊都郡高野町高野山)

 その内容は高野山の武装解除と再武装の禁止、寺領の多くの返上、山内に謀反人などの逃亡者をかくまわないことなどの条件を突きつけ、従わない場合は全山を焼き討ちするという厳しいものでした。

 意外なようですが、当時の高野山にも多数の僧兵勢力があり、信長との抗争時代から山麓には高野山方の出城が数多く築城されていました。高野山内では協議の結果、秀吉への臣従を決定。その使者として「木食応其(もくじきおうご)」を派遣しました。

 「応其上人」として現在も地域で親しまれているこの僧侶について、少し詳しく解説を加えましょう。

 応其は現在の滋賀県である近江国出身とされ、かつては「六角氏」に仕える武士だったと伝えられています。出家以前の経歴はほとんど不明ですが、天正元年(1573)に38歳で高野山において得度を受けました(25~26歳での出家とする別記事あり)。

 「木食(もくじき)」というのは修行法の一種であり、穀物を断って木の実などを口にすることに由来しています。応其は高野山入山の折にこの行を自らに課したとされ、そのことから「木食」が応其の代名詞のように扱われることがあります。

 応其は農業用水開発や架橋などの公共工事でもよく知られ、現在の和歌山県橋本市は応其によって紀の川に橋が架けられたことに由来する地名とされています。高野山の「客僧」という特殊な立場でありましたが、和歌山市方面在陣中の秀吉のもとに「南院宥全」「遍照尊院快言」とともに派遣されました。

 この時は秀吉からの降伏条件書を受け取り、後日高野山側の受諾返書を携え、応其は学侶(がくりょ)方の「良運」、そして行人(ぎょうにん)方の「空雅」とともに秀吉を再訪しました。

 高野山において「学侶」とは仏教教義の研究などを行う僧侶で、「行人」は主に実務を担当する僧たちを指しています。もうひとつ「聖(ひじり)」という階層があり、彼らは全国を行脚して勧進などを行ういわば営業部隊のような役を担っていました。

 安土城で信長が処刑したのは、この「聖」にあたる僧たちでした。

 なぜ重要な使者として客僧である応其が選ばれたのかはわかっていませんが、秀吉は殊に応其を評価しており、後には「高野の木食(応其)ではなく、木食自身が高野山と思え」という内容の発言をしたとまでいわれています。高野山はこの臣従によって焼き討ちを免れ、秀吉はその後山内復興のための補助・寄進を行っています。

 天正19年(1591)に高野山は1万石の所領を安堵、応其にも1千石の知行が与えられました。翌年には秀吉の母・大政所の追善のために剃髪寺(現在の金剛峯寺)を建立、1万石の寄進を受けて寺領2万1千石が高野山の知行として定着しました。

戦後

 日高や牟婁郡の一部では依然として抵抗戦が続いていましたが、秀吉軍によって紀伊の大半は制圧されました。紀伊一国を所領としたのは秀吉の弟・羽柴秀長で、「藤堂高虎」を普請奉行として和歌山城を築城。紀伊支配の拠点としました。

 こうして長らく自社勢力を中心とした中世的な自治機構を保ってきた紀伊国は、秀吉政権の統治下へと組み込まれていくこととなったのです。

おわりに

 紀伊国は「木の国」とも呼ばれるように、深い山岳地帯と長大な海岸線に守られた地域でした。

 一国支配を受け付けない各地の宗教勢力の基盤もさることながら、自然地形が天然の要害として作用した部分も多分にあるでしょう。秀吉の侵攻によってはじめて政権の統治下に入ったともいえ、その紐帯の強力さを感じさせます。特に根来・粉河・雑賀といった鉄砲部隊を擁する勢力は精強で、戦国の戦い方に大きな影響を与えたといっても過言ではありません。

 紀伊国という土地の戦略的価値と重要性は、徳川の世になっても御三家のひとつとして選ばれたことからもわかるように、武家政権にとって看過できないものがあったのだろうと考えられます。


【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。
小西隆順
和歌山県桃山町出身です。
素晴らしい記事をありがとうございます。
「紀州征伐」とは言わず「紀州攻め」と書かれているので、
小山先生を思い出しました。
2023/02/20 05:35