【愛知県】三河吉田城の歴史 東三河統治のシンボルとして機能

昭和29年(1954)に再建された三河吉田城の鉄櫓
昭和29年(1954)に再建された三河吉田城の鉄櫓
 JR豊橋駅から北東へ500メートルほどの場所にある、市民の憩いの場として親しまれている「豊橋公園」。その一角、ちょうど豊川の流れに接するように位置するのが三河吉田城です。天守を思わせる三重櫓が特徴的で、そこかしこに立派な石垣が散在していますね。

 かつて吉田城は東三河随一の規模を誇り、地域統治のシンボル的存在でした。そして今川・徳川・武田をめぐる攻防戦の舞台となっています。今回は、そんな吉田城の歴史を深堀りしていきましょう。

牧野古白によって築かれた今橋城

 吉田城が築かれた地域は、古くから交通の要衝でした。南信州から奥三河を経て水運が栄え、東西には東海道が通じています。室町時代には「今橋」と呼ばれており、人や物資が行きかう東三河随一の経済拠点となっていました。

 そんな今橋に城が築かれたのは永正2年(1505)のこと。豊川北部に勢力を持っていた牧野古白(こはく)という人物によって築城されました。古白は自らの居城として今橋城を築いたのですが、その裏には駿河守護・今川氏の支援があったものと考えられています。

 当時の今川家の当主・今川氏親は伊勢宗瑞の力を借りながら、対立する小鹿範満を攻め滅ぼして駿河を統一、次いで遠江を手中に収めました。そしてさらに三河へ攻め入る足掛かりとして選んだのが、古白が治める今橋だったのです。

 今橋は陸上・海上交通の要ですから、三河への入り口を抑える場所としては絶好でした。そこで氏親は牧野氏との関係を強化したうえで、確固たる根拠地を築いたのです。

吉田城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 とはいえ、牧野氏にとって今川の傘下に入ることは自立を脅かされる危険をはらんでいます。次第に今川氏との関係は悪化し、古白は急速に勢力を伸ばしつつあった松平氏と結びました。

 永正6年(1506)、今川氏親は奥三河の奥平氏に対し、「三河へ出陣するから田原に合力せよ」と要請しています。「田原」とは、今川氏との関係が深い戸田憲光のことで、牧野氏を討伐するにあたって三河衆に合力を求めたのでしょう。

 同年、氏親は大軍をもって三河へ討ち入りました。この時には叔父・伊勢宗瑞も軍勢を率いていたらしく、今橋城の出城のいくつかを攻め取っています。宗瑞が小笠原定基に宛てた書状の中では、「今日か明日には決着が付くでしょう」と記されていますが、城の抵抗は思った以上に頑強だったようです。

 古白は100日にわたって持ちこたえ、簡単には落城を許しませんでした。しかし城側の不利は如何ともしがたく、ついに古白は討ち死にを遂げ、一門の多くが殉じたといいます。

徳川氏の支配となり、酒井忠次が城主となる

 落城した今橋城には戸田氏が入りますが、その後も争奪戦は続いたようです。戸田氏、牧野氏、松平氏と城主が目まぐるしく入れ替わっています。

 そして情勢が大きく動いたのは天文15年(1546年)のことでした。北条氏と和睦を果たした今川義元は、西へ版図を拡大しようと目論み、折しも戸田尭光が織田氏に通じたことから、三河への足掛かりとする絶好の機会を得ました。

 これは苦境に立たされていた牧野氏にとっても好機だったようです。今川氏に忠勤を励めば、かつての旧領である今橋の回復も夢ではありません。そこで牧野保成は「戸田に勝ったら今橋を自分に与えてほしい」と懇願しました。

 しかし義元にとって、今橋は是が非でも支配下に入れておきたい城です。そこで「今橋はやれないが、戸田の旧領をそっくり与えよう」と返答したといいます。

 その年の11月、今川軍が今橋城へ押し寄せました。城方はよく守るものの劣勢を覆すことができず、程なくして城は開城したようです。その後、城代を置いて「吉田城」へと改名させています。

 さて、今川氏による吉田支配は20年ほどで終わりを迎えました。桶狭間の戦いのあと、今川からの独立を目指す松平(徳川)家康が東三河の攻略を仕掛けてきたからです。

 この頃には奥三河の奥平、二連木の戸田らが家康方となっており、今川方の勢力も大きく後退していました。吉田城には今川方の守将・大原資良が籠もり、かなりの抵抗を見せたようです。

 しかし形勢不利のまま兵糧攻めで苦しみ、永禄8年(1565)に降伏・開城を余儀なくされました。およそ9ヶ月にわたって籠城戦が続いたといいますから、吉田城の堅牢ぶりがうかがえるところです。

 大原ら今川方の諸将が去ると、城主として酒井忠次が入りました。そして吉田城は東三河の統治拠点として機能していくのです。

武田との激戦の舞台となった吉田城

 徳川氏が支配する以前の吉田城が、どのような姿だったのかは不明ですが、酒井忠次が城主の時代に大規模な改修を受けています。

 発掘調査の結果によると、近世に築かれた吉田城の二の丸・三の丸・藩士屋敷地に及ぶ範囲で、酒井期の堀が見つかっており、現在の豊橋公園の敷地を越えた南側まで城域が広がっていたことが確認されました。

 また、天正3年(1575)に武田軍が吉田城を攻めた際、山県昌景は書状の中で「二千人ばかりを城へ追い入れた」と記していますから、かなりの人数を収容できる城郭だったことは確かでしょう。

 さて、徳川と武田の激戦が繰り返される中、吉田城も戦いの舞台となっています。まず天正2年(1574)、武田勝頼によって高天神城が攻められると、窮地に陥った家康は盟友・織田信長へ救援を求めました。

 信長が吉田城へ入った直後に高天神城は陥落しますが、家康はわざわざ吉田城まで出向いて信長に礼を述べたといいます。

 この時、信長は兵糧代として黄金が入った革袋を家康に与えますが、これを見た忠次は、家臣に命じて革袋を持ち上げさせるというパフォーマンスをおこないました。信長から受けた恩義はこれほど重いとアピールしたかったのでしょうか。城の広間には多くの見物人が押し掛けたそうです。

 年が明けた天正3年(1575)、勝頼は本格的な三河侵攻に取り掛かりました。まず別動隊を奥三河へ進ませて足助城を開城させ、勝頼率いる本隊は野田城を抜いて吉田城へ迫ります。

 この時、家康は浜松を出て吉田城へ移りますが、二連木城まで出陣したところで武田軍に押し返されてしまいました。いったん吉田城へ戻った家康は城の防備を固くし、敵の来襲に備えたといいます。

 勝頼はその様子を見て、堅固な吉田城を落とすのは難しいと考え、徳川軍を誘き出すために挑発を仕掛けました。しかし家康が応じることはありません。結局あきらめた勝頼は奥三河へ進み、長篠城を囲んだのです。

 やがて長篠・設楽原の合戦で大打撃を受けた武田軍は敗走し、二度と吉田城が攻められることはありませんでした。

池田輝政の時代に近世城郭となる

 天正18年(1590)、小田原の役が終わると徳川氏は関東へ移封となり、代わって吉田城主となったのが池田輝政です。

まず吉田城の改修とともに城域を南から西にかけて拡張させ、同時に城下町の整備を図りました。熊野権現社や脇宮白山社などを別の場所へ移し、散らばっていた職人たちを城下に集住させています。また豊川に架かる豊橋を付け替えるなど、生活や交通の便宜を図りました。

 吉田城は最盛期に東西1400メートル、南北700メートルの規模があったとされ、名古屋城より広大だったとされています。また城の北には豊川が流れ、東には二重の堀を配して防備を固めました。そして西と南には総堀や土塁が存在して防衛ラインを形成しています。

 曲輪の配置については、豊川を背にして本丸。その外側に二の丸、さらに外側に三の丸を配した輪郭式縄張りとなっていました。ただし織豊系城郭のお約束である石垣は見受けられるものの、なぜか天守は築かれず、金箔瓦も発掘されていません。

 ただし本丸の北西には鉄櫓(くろがねやぐら)が築かれており、これが天守の役割を果たしていたと考えられます。いずれにしても15万石の太守の城にふさわしい巨城だったのは確かでしょう。

 吉田城の改修が終わるまでに11年の歳月を要しますが、輝政が播磨姫路へ移ったことで、ついに完成を見ることはありませんでした。

 続いて吉田城へ入ったのは松平家清ですが、たった3万石の城主に過ぎません。おそらく城の維持だけでも大変だったことでしょう。この時期、家康が上洛する途中に本丸御殿に宿泊したという記録が残っていますね。

 ところで吉田城の石垣には、刻印が刻まれた石が数多く積まれています。これは諸大名が築城に携わった「天下普請」を示すものですが、吉田城の場合は天下普請によって築かれた城ではありません。なぜ刻印石があるのでしょう。

 実は慶長17年(1612)に吉田藩主となった松平忠利は、名古屋城の天下普請に加わっていました。使い切らずに余った石を持ち帰り、もったいないからと城の修築に利用したそうです。

 吉田藩主は幕末に至るまで9家22代にわたり、小藩でありながら老中や京都所司代など、要職に就いた歴代藩主が多かったといいます。

 とりわけ松平定信の片腕として寛政の改革を推進した松平信明は、定信が失脚したのちも老中首座を務め、27年の長きにわたって国の舵取りを任されました。

 やがて明治になると敷地は兵部省の管轄となり、明治6年(1873)には火災によって多くの建物が焼失したといいます。さら残った建造物も払い下げによって取り壊されました。

 ただ静岡県湖西市の本興寺にある山門は、吉田城唯一の現存建造物だとされ、延宝2年(1674)に移築されたという記録があるそうです。

おわりに

 吉田城は大きな天守もなく、あまり目立たない城だと思われがちですが、実は魅力がたくさん詰まった城郭です。

 まず、本丸石垣は東海地方随一の高さを誇りますし、あちこちには大小60個近い刻印石を見ることができます。また三の丸にある巨大な鏡石や、川へ通じる水門跡など、他の城では見られない貴重な遺構が残っていますね。

 3月~4月には「吉田城春まつり」が開催されるそうで、たくさんの人でにぎわうのだとか。そんな吉田城を見て、聞いて、知って頂ければと思います。

補足:吉田城の略年表

出来事
永正2年
(1505)
牧野古白によって今橋城が築かれる。
永正3年
(1506)
今川氏親によって陥落。代わって戸田氏が城主となる。
享禄2年
(1529)
三河統一を目指す松平清康が攻略。
天文15年
(1546)
今川義元によって陥落。今川氏の城代が置かれる。(この時期に吉田城と改名)
永禄8年
(1565)
徳川家康の東三河侵攻によって開城。酒井忠次が城主となる。
天正2年
(1574)
武田軍の高天神城攻めに伴い、織田信長が救援のために入る。
天正3年
(1575)
武田軍が吉田城へ迫るも長篠城へ転進。
天正18年
(1590)
徳川氏の移封に伴い、池田輝政が城主となる。城の大改修が始まる。
慶長6年
(1601)
池田輝政の姫路移封に伴い、松平家清が吉田藩主となる。
明治2年
(1869)
版籍奉還により、明治政府の統治下に置かれる。
明治6年
(1873)
火災によって、多数の建造物が焼失。
明治18年
(1885)
陸軍歩兵第18連隊が城内に設置される。
昭和24年
(1949)
城跡が豊橋公園として整備される。
昭和29年
(1954)
本丸の鉄櫓が模擬復元される。
平成29年
(2017)
続日本100名城に選出される。
令和3年
(2021)
第1回吉田城春まつりが開催される。


【主な参考文献】
  • 中井均・鈴木正貴ほか「東海の名城を歩く 愛知・三重編」(吉川弘文館 2020年)
  • 山田邦明「戦国時代の東三河 牧野氏と戸田氏」(愛知大学綜合郷土研究所 2014年)
  • 大石泰史「城の政治戦略」(KADOKAWA 2020年)
  • 豊橋市「とよはしの歴史」(1996年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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