文明開化のシンボル! 明治の夜を明るく照らした灯油ランプ
- 2022/12/21
現在でも雰囲気の有る照明器具として使用される灯油ランプですが、日本で一般家庭の常備品となったのは明治時代です。
発明されたのはやっぱりアラブ世界だった?
ランプと来ればアラジンと魔法のランプが連想されます。そのせいでも無いでしょうが灯油ランプの文献での初出は、バグダッドのペルシャ人錬金術師アル・ラーズィーが、9世紀に著わした『秘密の本』で触れています。今少し確かなものは、19世紀中ごろに欧米で開発された灯油ランプです。これらはそれまでの鯨油や植物油を燃やすランプを改良したもので、格段に明るさが増し、鯨油特有の嫌な臭いも無くなりました。
日本に入って来たのはいつ頃かと言うと、万延元年(1860)、豊前国小倉藩士で蘭方医でもあった林洞海(はやしどうかい)が、渡米した折に友人から貰って持ち帰ったものが最初であるとされます。
実は日本でも石油を灯りとして利用するのは昔から行われていました。
『日本書紀』には越の国から『燃ゆる水』と『燃ゆる土』が天智天皇に献上されたと記されており、『燃ゆる水』は『臭水(くそうず)』と呼ばれ、これを土器に入れて燈心を立て燈火として利用していました。林洞海もこの『臭水』を手に入れ、灯りを灯したそうです。
福沢諭吉が東京築地で開いていた家塾、慶應義塾の前身ですが、そこで安政5年(1858)ごろには使われていたとも言います。
一般家庭に行き渡るのは明治の中頃
日本で使われ始めた灯油ランプも最初はほとんど輸入品で、大変高価なものでした。流麗なデザインのガラスと装飾性豊かな金属加工の組み合わせは工芸品のような美しさでしたが、何より人々を驚かせたのはその明るさです。「真昼のような」とか「髪の毛一筋も見誤る事無し」と形容され、それまで薄暗い蝋燭や行燈の灯りを頼りにして来た人々は、これぞ文明開化と喜んで持て囃します。しかしその恩恵にあずかれたのは一部の金持ち階級や、岩亀楼・金瓶大黒楼と言った外国人を客とする高級料亭などに限られました。
明治19年(1886)10月14日付の東京日々新聞には、
「世界中如何ナル所ヘモ御注文次第輸出ス」
として、1830年設立のドイツランプ製造業『ラムフ製造所』の広告が載っています。
『コエッペン&ウェンキ商会』が扱っていましたが、会社の所在地は独逸伯林ワルデマル街58番地です。世界中を相手に商売していたようですが、日本から注文して何時ごろ届いたのでしょうね。「定価表及ビ雛形書ハ御通知次第無代償ニテ郵送ス」とこちらはサービスしています。
そんな高価なランプも明治5年(1872)頃には国内での製造が始まり、徐々に一般家庭の常備品となって行きます。明治41年(1908)6月4日付のこれも東京日々新聞には、『金沢式改良石油白熱燈』の広告が掲載されていますが、すでに改良との言葉が使用されています。
キャッチコピーは「見よ!!!燈光界の革命児、石油は一夜僅かに一合あれば充分」で、その経済性が売り文句でした。
子供を悩ませた火屋掃除
この灯油ランプ、明るいのは良いのですが、灯り部分を覆う火屋(ほや)に付く煤(すす)が半端ではありませんでした。明るさを保つためには頻繁に掃除をしなければならず、その掃除は大抵子供に任されました。ちなみにほやに「火屋」の字を当てたのは、香炉や手炙りの蓋が火屋と呼ばれていたからです。
掃除には都市部では綿やぼろ布、農村では稲藁や麦藁を燃やした灰が利用されますが、藁の灰は粒子が細かく現在のクレンザーの役目を果たしました。灰をぼろ布に付けて磨くのですが、油分を含んだ煤はなかなか奇麗に落ちず、しかも火屋は大変壊れやすかったのです。
ランプは日用品になったとはいえ、まだまだ高価なもので、壊してしまった子供は親から大目玉を喰らいました。
柳田邦男は『火の昔』と言う著書に「和製のホヤは壊れやすいと言うが、それでも初期の硝子工場は殆どこればかり吹いておったと言ってよい有様で」と書いています。どれほどランプが良く売れたのかがうかがえます。
やがて電燈に取って代わられる
このように人々にもてはやされた灯油ランプですが、やがてやって来た電気の安全な明るい光には勝てませんでした。灯油ランプの欠点は、”臭いがする” ”空気が汚れる” などでしたが一番は安全性に欠けることでした。火屋は壊れにくいように改良され、火災の原因となる芯の部分も手が加えられます。ランプの火は芯がしっかり燃料部分にまで入っていないと、いきなり大きく燃え上がったりするのです。そして芯をしっかり通したとは言え、石油の精製品を燃やすのですからこれはもう火災が付いて回ります。電気灯の安全性・明るさ・手軽さにはとてもかないません。
明治11年(1878)3月15日には早くも東京中央電信局の開局記念会が開かれ、ア-ク灯が点火します。明治20年(1887)11月には東京電燈会社が発足し、徐々に全国へ通電して行き、大正時代の終わりごろには都市部ではほぼ白熱灯が全国に行き渡りました。
おわりに
文明開化を人々に実感させてくれた灯油ランプですが、その活躍期間は50年足らずと短いものでした。しかし現在でも通電していない国や地域では重宝され、山小屋などで趣のある灯りを灯し続けています。【主な参考文献】
- 寺田寅彦『地震雑感/津浪と人間』(中公文庫、2011年)
- 本田豊『絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典』(万来舎、2012年)
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