信長も恐れた戦国のガンナー!謎多き「雑賀孫一」の家紋とは?

「雑賀孫一」の家紋イラスト
「雑賀孫一」の家紋イラスト
 戦国期に普及した鉄砲は戦のあり方そのものを変革させた兵器として、あまりにも有名ですね。甲冑が意味をなさないほどの打撃力を遠距離から加えることができ、ある程度の訓練を施せば戦歴の浅い者でも使用が可能。その威力は刀槍や弓矢を凌駕し、恐ろしい武器として知れ渡ることとなります。

 その一方で製造が難しく、原料の入手にも調合にも特殊なルートと技能が求められる火薬を必要としたことから、当初は実戦配備には懐疑的な武将も多かったといいます。初めて鉄砲の組織的な運用に成功したのが織田信長だという説がありますが、やがてそれが戦国の世に必須の武器となっていくことは周知の通りです。

 この圧倒的な打撃力をもたらす鉄砲ですが、戦国大名だけに力を与えたわけではありませんでした。僧兵を擁する寺社勢力や、地侍の連合体に強大な火力をもって武将たちに対抗した勢力がありました。その代表格が紀伊の鉄砲傭兵集団とも例えられる雑賀衆(さいかしゅう)です。

 大量の鉄砲とその組織的運用で強大な武力を持っていた雑賀衆は、各地の大名に請われていわば傭兵として兵力を提供することがありました。そしてその頭目の一人としてもっとも有名なのが雑賀孫一(さいか まごいち)ではないでしょうか。戦国最強とまで称される鉄砲集団の長ですが、実は謎の多い人物でもあります。

 今回はそんな雑賀孫一について、どのような家紋を使っていたのかを探ってみることにしましょう。

雑賀孫一の出自とは

 「雑賀孫一」という呼び名はよく知られていますが、実は正確な本名ではありません。紀伊(現在の和歌山県あたり)の紀ノ川河口域、雑賀荘(さいかのしょう)を含む地域連合を雑賀衆といいますが、孫一はその指導者の一人と説明されることがあります。

 孫一とは そもそも通称で、本来の苗字は熊野大社神官家である穂積(ほづみ)氏の一族、「鈴木」といいます。戦国期の公家であった山科言継(やましなときつぐ)が著した日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』などに「サイカノ孫一」という記述があり、この呼び名がいつの間にか浸透していったものといえるでしょう。

 したがって鈴木孫一が本名と考えられますが、実は孫一は鈴木氏頭目代々の通り名という説もあり、時代・世代によって幾人かの孫一が存在した可能性があるといいます。

 元亀元年(1570)に勃発した石山本願寺合戦で本願寺に合力して織田信長を苦しめたのは、「鈴木重秀」を本名とする孫一だったと推定されています。石山合戦後には信長に近付いたとされ、その後秀吉に仕えて天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは200名の鉄砲衆を率いて織田信雄・徳川家康連合軍と対峙しました。

 この頃には雑賀衆内部の紛争で孫一自身は雑賀の里を離れており、翌天正13年(1585)の紀州攻めに際しては降伏勧告の使者として紀伊・太田城へ派遣されています。

 しかしあらゆる点で彼に対する史料が乏しく、上記の事績もすべてが同一人物によるものではないとする説も提示されています。したがって孫一の最期も正確なところは不明となっています。


雑賀孫一の紋について

 出自や事績の多くがよく分かっていない雑賀孫一は、その家紋についても詳細は判明していません。しかし一般に「八咫烏(やたがらす)」の紋を用いていたというイメージが浸透している点が注目されます。これは神話に登場する三本足の烏で、熊野に到達した神武天皇を大和へと導いたとされる神使でした。

神武天皇と八咫烏の肖像(月岡芳年 画)
神武天皇と八咫烏の肖像(月岡芳年 画)

 元来は熊野本宮の神紋であり、孫一の本姓である「鈴木」が熊野の神官・穂積氏の系譜であることからの連想ともされていますが、出典・根拠ともに不明というのが実際のところです。

なぜ「烏」なのか

 孫一に直結することではありませんが、八咫烏について少し補足しておきましょう。

 どうして神武天皇を導いたのがカラスという鳥であったのかという問題に、興味深いひとつの説が提示されています。それは古代中国の神話に登場する「三足烏」の伝説に由来するというもので、太陽に棲む霊鳥と考えられました。紀元前3世紀ごろの書物にはすでにその名が見え、非常に古い伝承であることが理解できます。

 また、烏を太陽の象徴としてそのことを「金烏(きんう)」といい、兎を月の象徴として「玉兎(ぎょくと)」と呼ぶこともあります。このことからそれぞれを陽と陰を表わすものとし、後世に安倍晴明を著者として仮託した『金烏玉兎集』という陰陽道の書名も存在します。

 このように中国古代の信仰や陰陽五行論がもたらされた結果として、日本神話に三本足の烏が登場すると考えられています。

おわりに

 謎が多くその全体像はまだまだ不明な雑賀孫一ですが、権力に屈することなく戦った戦国のガンナーとして、その人気は高まりをみせています。秀吉の時代まで一元支配されることがなかったという紀伊国の強さは、こうした強力な地侍たちによる連合によるところが大きかったといえるでしょう。



【主な参考文献】
  • 大野信長『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』(学研、2009年)
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』(KKベストセラーズ、2014年)
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版)(講談社)
  • 和歌山市観光協会 孫一と雑賀鉄砲衆

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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