「雑賀孫一(鈴木重秀)」戦国一のスナイパー!? 紀州鈴木一族の棟梁
- 2021/02/15
鉄砲の登場により、戦国時代のあり方は大きく変わりました。
紀伊国には、鉄砲を駆使して勢力を広げた傭兵集団が二つあります。それが雑賀衆と根来寺です。
雑賀党鈴木氏の棟梁は、代々「雑賀孫一」の名前を継承してきたと言います。
ここでは戦国時代に活躍した、雑賀孫一(鈴木重秀)の生涯について見ていきましょう。
鉄砲傭兵集団・雑賀衆
共和国と称された紀州勢力・雑賀衆
戦国時代の紀伊国は、畠山氏が守護を務めていた地域です。紀州北部では、高野山や根香寺、そして雑賀衆が独立して割拠していました。
来日していた宣教師のルイス・フロイスは、これらを「大いなる共和国的存在」と『日本史』で言及しています。
雑賀衆などの国人勢力が、独立国家的に振る舞っていた状況が想像できます。
雑賀衆は、紀ノ川下流域の土着の集団です。雑賀荘、十ヶ郷、宮郷、中郷、南郷の五つの地域を押さえていました。雑賀孫一は、このうち十ヶ郷を本拠としています。
これらの地域は、それぞれ経済基盤も農業生産力も違うためか、雑賀衆はたびたび内輪揉めを繰り返していました。
孫一の十ヶ郷、雑賀荘は地味悪く農業に適した土地ではありませんでした。しかし同地には、熊野水軍の末裔が多く住んでいたと言います。
十ヶ郷と雑賀荘は、独自の水軍を持って漁業や海運、交易に進出していきます。紀伊水道を南下し、四国や九州沿岸はおろか中国とも交易を行っていました。
海外との交流からか、雑賀衆はいち早く鉄砲に着目します。一説に雑賀衆は五~八千丁の鉄砲を所持していたと言われています。『佐武伊賀働書』によると、小さな子供の頃から鉄砲の稽古をしていたと記載があるほどでした。
これらのことから、雑賀でも独自に鉄砲を製造していたことが考えられます。
鈴木家棟梁 雑賀孫一
なお、雑賀孫一は本当の名前ではありません。名字は鈴木、通称は孫一、実名は重秀というのが正しいところです。
『言継卿記』などには、雑賀の住人の孫一という意味で「雑賀の孫一」などと呼ばれたとあります。
孫一の本姓は穂積氏であり、熊野新宮の社人の流れであったと考えられます。しかし確かなことは分かりません。出自はおろか、父親の名前さえ明確ではありません。
『紀伊続風土記』によると、鈴木佐大夫という者の子としています。
孫一が確実な史料(『佐武伊賀働書』)の中に現れるのは、弘治年間の末から永禄年間初め(1557~58年)のことです。
ここで孫一は、名草郡の戦いに兵を率いて出陣しています。これは和佐荘と岩橋荘の間にある土地争いでした。既に地元の有力者として活動しているのがうかがえます。
ちなみに当時、雑賀衆を軍事的に統率していたのは、孫一の鈴木家ではなく、土橋家の一族でした。
石山決戦で織田信長を破る
雑賀孫一の名前が大きく喧伝されるのは、元亀元(1570)年に始まった、織田信長と本願寺による石山合戦です。
当時、本願寺の本山は摂津国石山にありました。この戦いは信長に畿内から追われた阿波の三好党が摂津に上陸したことが発端です。ここで本願寺は自らも危機感を感じ、挙兵に及んだとされています。
孫一は最初の段階から三好党と行動をともにしていました。おそらく三好党の渡海を請け負い、傭兵として戦闘に赴いたものと考えられます。
孫一は雑賀衆とともに石山本願寺に入城。鉄砲隊大将として五千丁の鉄砲で信長を苦しめたといいます。下間頼廉と並んで「大坂之左右之大将」と称されるほどの働きぶりだったと伝わります。
天正2(1574)年には、真木島昭光(将軍・足利義昭の近臣)からの書状を受け取るなど、将軍からもその武名が認められいたことがわかります。
天正4(1576)年、天王寺の戦いでは信長と直接対峙しています。この時は双方ともにかなりの死傷者を出しました。
『信長公記』では、雑賀衆の銃弾を受けて信長が足を負傷したと記されています。孫一は、天下人である信長を戦死寸前まで追い込んだことになります。
戦後には、信長は大勝利を吹聴した上で、京に孫一の偽首を晒しました。信長が孫一を恐れ、この敗戦の衝撃が大きく響くと考えていたことがうかがえます。
同年、孫一は本願寺の同盟者である毛利氏が石山への兵糧の搬入を企てます。播磨国室津に出向き、雑賀水軍も淡路国岩屋で合流しました。
雑賀衆は大坂湾への一斉突入を主張し、毛利水軍もこれを受け入れます。結果、織田側の九鬼水軍の全滅という戦果を挙げることとなりました。
火縄銃の連射とゲリラ戦術を駆使
天正5(1577)年、信長は二度にわたって雑賀攻めを行います。
『イエズス会日本年報』によると「信長は雑賀を破れば大坂(本願寺)の維持できぬことを知り」仕掛けてきたようです。
信長は、十ヶ郷と雑賀荘以外の大部分を寝返らせ、根来寺にも協力させています。
織田軍は公称十万という大軍勢で出陣。雑賀攻めは、そのうち六万と言われています。
孫一以下、数千の雑賀勢は善戦して長期戦となりました。
孫一たちの戦術は特殊なものだったようです。
当時の鉄砲は連射こそできませんし、発射までの時間がかかる代物でした。
そこで5人程度のグループに分かれ、弾込めと射撃に役割分担をさせ、時間差によって連射攻撃を可能にしたと言います。
さらにはゲリラ戦術も採用されていました。織田軍は大軍でしたから、正面から戦うのは得策ではありません。雑賀衆は少人数で確実に打撃を与えていきました。
雑賀衆は既存の武士ではありません。ですので体面を重んじる必要もありませんでした。
結局、信長は雑賀を攻め落とすことができず、和議が結ばれます。形式上は雑賀衆の降伏扱いにしたものでした。
この後、雑賀で孫一と信長派との内紛が起き、孫一が勝利しています。
ほどなく信長は七万の大軍で再び攻めて来ました。
しかしこれも、孫一らが迎撃して撤退に追い込んでいます。
雑賀衆を掌握し、故郷を追われる
しかし孫一たちの抗戦も、終わる時がやってきました。天正8(1580)年には本願寺が信長と講和し、石山から退去となりました。実質は降伏に等しく、信長の勝利です。
本願寺が降伏した際、孫一は調整役を務めたと言います。その後は次第に信長に接近していきます。
そんな中、孫一は十ヶ郷の中の土地を巡り、地元の土橋若大夫(守重)との対立を深めます。土橋家は紀伊国を代表する国人衆でした。雑賀衆を統率しながら、根来衆の当主にも一族を送り込んでいます。
名目は土地問題ですが、土橋家と鈴木家による雑賀衆の主導権争いだったと見ることができます。
本願寺降伏後も、土橋家は信長への敵対姿勢を完全には崩していませんでした。
天正10(1582)年には、孫一が刺客を送って守重を暗殺、土橋一派を駆逐しました。しかし孫一とすれば、更なる戦を警戒したはずです。雑賀衆が一枚岩でなく、さらに外部に土地の争いが勃発した以上、適切な処置が必要でした。
一連の動きは、孫一が信長を利用して戦国大名にのし上がろうとしたかに見えますが、同年に本能寺の変が勃発し、信長は明智光秀に討たれてしまいます。
変を受け、孫一は和泉国岸和田城に脱出。翌日には土橋派による孫一派への攻撃が始まっており、間一髪で難を逃れた形でした。
天下人秀吉の鉄砲頭
紀州勢の北上と鉄砲頭・孫一の参陣
天正12(1584)年、羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが勃発します。
ここで紀州勢力は大きく動きました。孫一不在の雑賀衆、根来衆らなど、紀州勢力の多数が家康側と結んで和泉国に出兵しました。
紀州勢は岸和田や貝塚で羽柴軍と激戦を繰り広げ、堺を占領して住吉や天王寺にまで兵を進めます。さらには大坂城に迫り、街を焼き払って秀吉に脅威を与えます。
これに対して孫一は、全く違った動きを取っています。
孫一は秀吉側の鉄砲頭の一人として、小牧・長久手の戦いに参陣。二百丁を預かる鉄砲隊の頭となっていました。預かった鉄砲の数は、9人の鉄砲頭のうち最高数です。秀吉にかなりの信頼を受けていたことがわかります。
故郷・雑賀を攻め落とす
翌天正13(1585)年、秀吉は十万の兵で紀州攻めを敢行します。従軍した孫一にすれば、故郷を攻める戦でした。
羽柴軍は緒戦から勝利を重ねていきます。根来寺はことごとく焼かれ、雑賀も内部分裂を起こし、土橋氏は土佐へ逃亡。
雑賀衆の残党は宮郷の太田城に籠城します。他にも雑賀を中心に抵抗を続ける城が複数ありました。
秀吉は太田城に水攻めを行います。兵力の損耗を抑えつつ、持久戦に持ち込む戦術でした。
ここで孫一は太田城への降伏勧告の使者を務めています。
孫一からすれば、太田城にいるのはかつて自分を追った者たちです。同時にかつての同輩でもありました。
もうこれ以上死なせたくない、という彼の思いがあったと考えられます。
結局、ひと月ほどで太田城は開城し、雑賀衆の抵抗も止みました。
戦後、孫一は息子を秀吉の人質に出しています。
紀州征伐の後ですから、疑われないにという措置でしょう。
この息子はのちに豊臣家の鉄砲頭となる鈴木孫一郎だとも考えられています。
晩年は消息不明
孫一のその後の足跡については、よくわかっていません。
雑賀に戻った形跡はなく、没するまで大阪にいたと考えられています。
一説には、諸国遍歴の後に藤井寺で僧になった、或いは雑賀に戻って没したと言われています。
しかし全て憶測の域を出ていません。
確かなことは、鈴木重秀という武将が雑賀孫一という異名で呼ばれ、煙のように歴史の中に消えていったことです。
【主な参考文献】
- 鈴木眞哉『〈戦国時代〉信長を苦しめた猛将・鈴木孫一』 学研 2014年
- 鈴木眞哉『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』 平凡社 2004年
- 和歌山市HP 「孫一と雑賀鉄砲衆ガイドブック」
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄