「禁門の変(蛤御門の変)」長州vs幕府軍!御所が戦場となった幕末京都の大戦火
- 2023/04/18
それというのも、長州藩は過激な攘夷派が主導権を握って朝廷に接近し、政局を揺るがすほどの影響力を行使した時期があったためです。しかし政変によってその勢力は一時京都から駆逐され、のちに討伐対象として幕府の軍を差し向けられるという事態に陥ります。
その直接の原因となったのが元治元年(1864)7月の禁門の変(きんもんのへん)です。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、もしくは元治甲子の変の別名でも知られています。京都御所を舞台とした軍事衝突の概要をみてみることにしましょう。
事件の背景
過激派公家たちとのパイプを利用して一時朝廷内で大きな影響力をもった長州藩でしたが、文久3年(1863)の八月十八日の政変により、その勢力は京都から駆逐されました。朝議を牽引していた三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉のいわゆる七卿も長州へと落ち延び、尊攘派ではなく公武合体派が京都で復権を果たします。
同年12月から翌元治元年にかけては朝廷内に参与会議が成立。一橋慶喜・松平容保・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・島津久光が参与に就任しました。ここでは長州藩の処分問題も論じられ、征討軍の編成も決められていました。
長州では八月十八日の政変以降、藩論が大きく二分し、従来の尊攘派の流れを汲む正義派と幕府への恭順姿勢を打ち出す俗論派が対立していました。しかし元治元年(1864)3月、参与会議が内部分裂を起こして解散。強力な大藩が京洛を退去したこと、そして6月に尊攘派の勢力挽回を企図して参集していた長州藩士や諸藩の志士らが京都・池田屋で治安維持組織・新撰組に逮捕・斬殺されたことで藩論は進発論へと傾きます。
長州藩世子・毛利定広、そして三家老の福原越後・国司信濃・益田右衛門介らの上洛を決定、大規模軍容を整えての出兵を企図します。これは引き続いての攘夷決行の嘆願、七卿落ちで朝廷を追われた三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌らの恩赦、在京浪士勢力の鎮静化などを名目としたものでした。
編成(長州藩)は以下の通りです。
- 第一隊 浪士300人
- 第二隊 福原越後隊200人
- 第三隊 游撃軍400人、国司信濃隊100人
- 第四隊 益田右衛門介隊300人、讃岐守隊200人
- 第五隊 毛利定広本隊
この出兵に桂小五郎らは反対の立場をとり、高杉晋作や周布政之助らも慎重論を唱えていました。久坂玄瑞もはじめは慎重論の立場でしたが、来島又兵衛・真木和泉らの強硬派に押し切られる形で参陣したといいます。
出兵に際しては游撃軍をはじめ、忠勇隊・集義隊・八幡隊・義勇隊・宣徳隊・尚武隊などの諸隊に農民・商人ら一般人への狼藉や田畠の略奪を禁ずるなど、厳しい軍規が課されました。
事件の経緯
6月24日、先発した福原越後隊は京都伏見に着陣。上洛部隊は次いで山崎・嵯峨などに続々と参集し、京都包囲網ともいえる布陣を形成していきます。7月には毛利定広本隊と長州に落ち延びていた先述の五卿も上洛の途につき、京都周辺は一気に緊迫感が高まっていきました。長州のこの動きを受け、朝廷と禁裏御守衛総督の一橋慶喜は対策を協議。長州藩から提出された嘆願内容について検討するかたわら、薩摩藩・桑名藩・会津藩の精鋭を動員して洛中・洛外、そして御所内外の防備を固めました。
幕府はさらに東海道・中山道筋などにも長州藩兵の動きを阻止するよう下令しており、江戸方面への交通網封鎖を含めた大規模な迎撃態勢を整えようとしたことがうかがえます。
福原越後を筆頭とする長州側代表と幕府側はこの間にも交渉を行っており、久坂玄瑞・真木和泉らも陳情書を提出するなどの運動を展開しました。両者は20日余り対峙しましたが、ついに武力衝突が勃発します。
戦闘状況
7月18日夜半から作戦行動を開始した長州部隊は翌19日早朝、御所・蛤御門近辺で京都守備隊の会津・桑名藩部隊と衝突。戦端が開かれました。伏見に布陣していた第二隊は福原越後の負傷により入京できませんでしたが、嵯峨・天龍寺に拠っていた国司隊・来島隊が二手に分かれて進撃。国司隊は筑前藩兵が守備する中立売門を突破して御所内に侵入、来島隊は蛤御門に迫って激しい戦闘を繰り広げました。
このとき来島又兵衛は狙撃されて負傷、そして自決。山崎を拠点にしていた真木和泉・久坂玄瑞隊は御所南方の堺町門方面へ向かい、福井・桑名・彦根の部隊と交戦。次いで援護に合流した薩摩・会津の部隊とも会敵しました。
久坂玄瑞・寺島忠三郎らは朝廷への嘆願要請のため、鷹司邸に侵入しましたが、その場で自刃。彼らの遺命を受けた入江九一が脱出を図りましたが、邸宅の塀を乗り越えようとしたところを刺突され戦死。真木和泉も負傷し天王山まで退却したところで切腹、長州部隊は有能な指揮官を次々に失い、戦の趨勢は決しました。
禁裏が戦場となったこの戦いでは流れ弾が御所にも到達し、後の明治天皇である睦仁親王がショックで気を失ったと伝わっています。
この戦には禁裏御守衛総督を務めていた一橋慶喜も自ら太刀を抜いて参戦。戦国期を生きた世代を除き、自ら敵と斬り結んだ経験をもつ徳川将軍は慶喜だけだったといわれています。
戦闘そのものは一日で終わりましたが、退却時に長州藩兵が藩屋敷に放火。会津藩兵も潜伏している長州敗残兵を攻撃するため中立売門近辺の家屋に火を放ちました。これらから上がった火の手は京都市中に延焼、21日まで燃え続けて2万8000戸余りが焼失。焼け出された避難民の行列が続くなど大きな被害をもたらしました。
長州三家老らは敗残兵をまとめて退却、毛利定広もこの報を受けて長州へと引き返し、ここに過激派尊王攘夷運動が一定の終焉をみることになりました。
事件後
禁門の変後、長州側に与した宮や公卿らは処罰の対象となり、同年7月23日には長州追討の令が発せられました。御所に向かっての発砲や長州藩主父子の関与が明確となったことなどから、長州は朝敵として討伐対象に指定されたのです。藩主・慶親は12代将軍・家慶から偏諱を受けた「慶」の一字を幕府から剥奪され、以後「敬親」を名乗り、同様に世子・定広も13代将軍・家定からの偏諱である「定」を剥奪され、「広封(のち元徳)」と改めました。この流れで同年の第一次長州征討が実施され、大規模な内戦が始まることになります。
長州勢は禁門の変の戦闘で特に薩摩藩と会津藩への憎悪を募らせたといい、長州が薩摩を不倶戴天の敵と位置付ける直接のきっかけになったとされています。
禁門の変は幕府と朝廷においては公武合体派の分解を招き、長州藩では攘夷から倒幕へとその方針転換を促す契機になったことが指摘されています。
おわりに
皇居である御所が戦場となり、伝統的な首都であったといえる京都市中が戦火に見舞われるという惨事を引き起こした「禁門の変」。この事件の激戦地となった蛤御門は、現在も京都御所でその姿を間近に見ることが可能です。 この門の通称は江戸時代の火災の折、ほとんど開くことのない御所の門が火によって開け放たれたことに因むと伝わっていますが、どの時期においての火災によるものかはいくつかの説があり、定かではありません。
現在のものは明治前期の整備事業で移設された状態であり、幕末当時には今より30メートルほど東側に南を向いて建っていたといいます。その門柱には当時の弾痕が残されており、往時の激戦の様子に思いを馳せるよすがとなっています。
【主な参考文献】
- 『世界大百科事典』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 環境省 御苑案内図(蛤御門)
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