「佐久間象山」 長野が産んだ天才的儒学者は、ペリーを会釈させた!? 吉田松陰ら門下生を育てた思想家

佐久間象山の肖像写真(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/" target="_blank">国立国会図書館「近代日本人の肖像」</a>)
佐久間象山の肖像写真(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

幕末、攘夷の機運が高まる中で敢然と開国を主張し、坂本龍馬や吉田松陰らを導き育てた人物がいます。松代藩出身の思想家・佐久間象山(さくま しょうざん)です。

象山は若い頃から優れた学識で名を馳せ、江戸で代表的な儒学者となります。やがて海防に携わることとなった象山は、優れた知識を求めて蘭学を探究。西洋兵学の大家となり、開国を主張していきます。象山は吉田松陰や坂本龍馬の学問の師となりますが、やがて幕府に睨まれて投獄。数年の月日を松代で幽閉されて過ごしました。

象山は何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。佐久間象山の生涯を見ていきましょう。


藩主にも憚らない藩士


わんぱくな少年時代

文化8(1811)年、佐久間象山は信濃国埴輪郡松代(現在の長野県長野市松代町)で、松代藩士・佐久間一学国善の長男として生を受けました。生母は妾のまんです。幼名は啓之助と名乗りました。象山は号です。

佐久間家の系譜は、諸説あって判然としません。父・一学は松代藩士・長谷川善員の長男として生まれています。善員は齋藤仁左衛門の次男でした。齋藤家は、戦国時代の斎藤朝信にまで由来を遡ります。上杉謙信に仕え「越後の鍾馗」と称されたほどの武将でした。



象山が生まれた時の佐久間家は、わずか五両五人扶持という微禄の家でした。一学は軽輩ながらも藩主に才能を認められて近侍。右筆役頭を務めるほどとなっています。加えて一学は卜伝流剣術の達人としても知られるなど、文武両道に長けた藩内屈指の人物でした。

しかし象山は幼い頃から真面目に学問に取り組んでいたわけではありません。むしろ喧嘩が奇行を繰り返し、周囲が辟易するほどの腕白ぶりで知られていました。

あるときなどは、藩の家老の息子と喧嘩沙汰を起こしています。一学は象山に三年の謹慎を与え、礼儀や道徳を学ばせるなどしています。


象山神社内にある佐久間象山宅跡(長野県長野市松代町)
象山神社内にある佐久間象山宅跡(長野県長野市松代町)


藩主の近習をわずか二ヶ月で辞める

長じた象山は、やがて本格的に学問に取り組み始めました。

文政7(1824)年、象山は藩の儒学者・竹内錫命に師事。詩文を学び始めています。文政9(1826)年には、鎌原桐山から経書(儒学の経典)を、藩士・町田源左衛門には会田流和算を学ぶなど、多くの学問に触れていました。

文政11(1828)年には家督を相続。晴れて佐久間家の当主となります。学識に優れた象山の噂は、すでに藩内で知るところとなっていました。

天保元(1830)年には、漢文100遍を制作して師・鎌原桐山に提出。これを認めた松代藩主・真田幸貫が銀三枚を与えています。翌天保2(1831)年3月には、幸貫の嫡男・幸良に近侍。近習として教育係を務めることとなりました。しかし着任からわずかとなる5月、象山は突如として辞任。高齢となった父・一学の世話をするためでした。


信濃松代藩主・真田幸貫の像(真田宝物館所蔵)
信濃松代藩主・真田幸貫の像(真田宝物館所蔵。wikipediaより)

藩主・幸貫は象山の癇が強い性格を知りながらも、才能を高く評価しています。翌天保3(1832)年、象山は藩の家老に不遜な態度を取ったことで閉門。しかし一学の病が重くなったことで、幸貫は象山を放免しています。周囲の理解や支えがあって、象山は歩んでいました。



「東洋道徳・西洋芸術」の体現! 儒学者から西洋兵学の第一人者へ


佐藤一斎の門下で頭角を表す

象山は松代に留まらず、より広い世界で自身を高めたいと考えていたようです。天保4(1833)年、象山は藩から遊学を許されて江戸に出府。佐藤一斎に師事し、詩文と朱子学を学んでいます。

当時、佐藤一斎は儒学の第一人者と言われていた人物です。昌平黌の儒官(総長)も務め、専門の朱子学から陽明学まで見識を持っていました。


美濃国岩村藩出身の儒学者、佐藤一斎の像(渡辺崋山 筆。wikipediaより)
美濃国岩村藩出身の儒学者、佐藤一斎の像(渡辺崋山 筆。wikipediaより)

象山は門下の中で頭角を表し、備中松山藩士・山田方谷と並び「佐門の二傑」と称されるほどとなります。江戸時代の儒学は官学であり、道を極めることは将来の成功にも深く繋がっていました。

天保10(1839)年には、象山は神田お玉ヶ池に私塾・象山書院を開塾。儒学者として歩み始めます。当時の儒学者は、攘夷主義者が大半を占めていました。象山自身は、西洋の学問に対して忌避はしていなかったものの、あくまで認識程度のものでした。


西洋砲術の専門家となる

天保11(1840)年、清国とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発。最終的に清国は敗北を喫し、領土を割譲することになります。

当然、緊迫した情勢は日本にも伝わっていました。天保13(1842)年、主君である松代藩主・幸貫が幕府老中に就任。海防掛を兼任していました。象山は顧問を拝命し、海外情勢を研究することとなります。

やがて象山は『海防八策』の上書を皮切りに、蘭学を修める必要性を認識しています。弘化元(1844)年からは、オランダ語や蘭方医学書、蘭式兵学書を学んでいます。

儒学者の立場からすれば、蘭学は正反対に位置する学問です。傲岸な性格とされる象山ですが、学問に対しては非常に柔軟な考えを持っていました。

象山は蘭学や砲術に専念すべく、やがて象山書院の閉塾を決定します。そのまま韮山代官・江川英龍(太郎左衛門)に師事し、最新の兵学や砲術を学ぶこととなりました。

短期間で洋式砲術を習得するために、高島流の下曾根信敦(しもそね のぶあつ)から文書を借りて学習。「秘伝」といった旧来の教育法には懐疑的で、書物から学んだことは公開するように務めました。



門下生は吉田松陰や坂本龍馬

次第に象山は西洋砲術家として名を高めていきます。砲術の普及に留まらず、象山はガラスの製造や地震予知器の開発にも結果を出していました。いずれは牛痘の導入も企画していたようです。

嘉永4(1851)年に再び江戸の木挽町に「五月塾」を開塾。砲術と兵学を後進に指導しています。五月塾には幕臣から諸国の藩士まで、錚々たる人物が入門して来ました。

勝海舟や長州の吉田松陰、土佐の坂本龍馬、会津の山本覚馬らが象山の講義を受けています。出身者の多くは、時代の行く末を左右した人物ばかりでした。確かに象山は天下国家に大きな影響を与えていたのです。

象山は学識だけでなく、実践的立場で物事に取り組みを見せます。同年、松代藩の依頼で西洋式大砲を鋳造。江戸で演習を行いましたが、方針が爆発して失敗してしまいました。観衆からは物笑いの種にされ、落首で揶揄されています。

しかし象山は失敗が成功に繋がると確信。もっと金を出すべきだと強論し、役人を呆れさせたと伝わります。



吉田松陰の密航計画に連座して蟄居の身に

象山の取り組みは、やがて国家の耳目を集めていきます。

嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を要求するという大事件が起きました。象山は松代藩の軍議役として浦賀を訪問。実際にペリーの黒船を自分で確かめています。

このときの問題意識は、老中首座・阿部正弘に『急務十条』に纏められて上申されています。その後、象山は外国留学の必要性を感じ、門人の吉田松陰に外国への渡航を勧めていました。

嘉永7(1854)年、ペリーが再び黒船艦隊を率いて来航。横浜に上陸しています。その際、ペリーは象山は松代藩の陣営の前を通りかかりました。象山は軍議役として、厳然たる雰囲気を持ってペリーを凝視。思わずペリーは象山に会釈したと伝わります。


1854年、日本に再上陸(横浜)したペリー一行の絵(ヴィルヘルム・ハイネ 画)
1854年、日本に再上陸(横浜)したペリー一行の絵(ヴィルヘルム・ハイネ 画)


やがて大きな事件が象山に降りかかります。吉田松陰が密航すべく、ペリーの黒船に小舟で乗りつけていました。密航はかないませんでしたが、松蔭は奉行所に自首して囚われています。

当時は外国渡航は固く禁じられていました。松蔭が事前に象山に相談していたことが発覚。象山も事件に連座し、一時は伝馬町牢屋敷に収監されています。やがて象山の国許松代での蟄居が決定。家老・望月主水の下屋敷の一角で生活することとなりました。

蟄居の身となった象山ですが、世間から隔絶されていたわけではありません。松代には、象山を訪ねて松蔭の弟子である高杉晋作や久坂玄瑞が面会に訪れています。

万延元(1860)年には『桜賦』を発表。桜花の美徳を讃え、憂国の情を託した名文でした。この桜賦は孝明天皇の天覧を賜っています。象山は蟄居中の身でありながら、天下にその名を響かせ続けていました。



京都で暗殺される

文久2(1862)年、象山は蟄居を解除。八年ぶりに晴れて自由の身となっています。当時は尊王攘夷運動が隆盛を迎えつつあった時期です。公武合体論や開国論は異端扱いとされ、尊王攘夷派に命を狙われる対象にさえなっていました。

しかし象山は臆していません。元治元(1864)年、象山は禁裏御守衛総督・徳川慶喜の求めに応じて上洛。開国や公武合体論を毅然と説いています。加えて象山は、孝明天皇を彦根に移すように進言。一説によると、その先の江戸遷座も考えていたと伝わります。

その後の東京奠都まで考えると、象山の発想は数年先を見据えた先進的なものでした。当時は京都で池田屋事件が起きたばかりであり、長州藩が進撃してくる恐れがありました。

一連の象山の動きは、京都の尊王攘夷派を刺激します。7月11日、象山は乗馬した状態で三条木屋町を闊歩していました。しかも鞍は西洋のものです。

やがて熊本藩士・河上彦斎らが象山を襲撃。象山は白昼の京都で命を落としてしまいました。享年五十四。戒名は清光院仁啓守心居士。墓所は松代の蓮乗寺にあります。





【主な参考文献】
  • 大平喜間多『佐久間象山〈人物叢書〉』 吉川弘文館 1987年
  • 国立国会図書館HP 近代日本人の肖像 佐久間象山
  • 信州松代観光協会公式HP 観光スポット

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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