「勝海舟」かの坂本龍馬を魅了した "日本第一の人物"! 異端の幕臣にして海軍創設の父

 幕末史といえばどちらかというと維新を成した志士の側にスポットライトが当たりがちですが、幕府側上層部にも後の世に強い影響を与えた偉才たちがいました。その中でも勝海舟(かつ かいしゅう)の名を挙げることはまさしく不可避といってもよいでしょう。

 坂本龍馬が心酔し、「日本第一の人物」とまで評した勝海舟とはいったいどのような人生を送ったのでしょうか。今回はそんな勝海舟の生涯をみてみることにしましょう。

出生~青年時代

 勝海舟は文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(現在の東京都墨田区亀沢)に旗本小普請組・勝小吉の長男として生を受けました。通称は麟太郎、諱は義邦、よく知られる「海舟」は号のことです。

 海舟が生まれたのは父・小吉の実家である男谷家で、小吉は婿養子として旗本の勝家に入った経緯がありました。男谷家は幕末の剣聖として名高い男谷精一郎信友を輩出しており、海舟と精一郎は又従兄弟となり、系図の上では従兄弟として記録されています。

 海舟は文政12年(1829)、6歳頃で第11代将軍・徳川家斉の孫にあたる初之丞(後の一橋家第6第当主・一橋慶昌)の御相手として江戸城へと出仕します。これは男谷家の伝手による人事でしたが、天保9年(1838)に初之丞が早世したため一橋家への仕官はかないませんでした。

 同年、父・小吉の隠居により弱冠15歳にして勝家の家督を相続。剣術は従兄である精一郎、ついでその高弟である島田虎之助に師事して直心影流を学びました。


 この流派は現在も伝えられており「動く禅」とも評される剣風が知られています。幕末にもしきりに稽古され、男谷精一郎をはじめ、“天覧兜割” の榊原健吉など、質実剛健な多くの名剣士を生み出しました。

 海舟はこの流派の剣術修行に心血を注いだとされ、天保14年(1843)頃には免許皆伝を受けるまでの腕前へと成長しました。同じ頃には洋式兵学の勉強を開始し、弘化2年(1845)頃からは永井青崖に師事して蘭書、つまり西洋の書物を読むようになります。嘉永3年(1850)には江戸・赤坂田町中通に蘭学塾を開設。洋式兵学に相当の知見を有した海舟は諸藩からの依頼を受け、銃や大砲の鋳造にも関わったといいます。

黒船来航~アメリカ渡航の時代


 嘉永6年(1853)にペリー率いる黒船艦隊が来航したことは日本史上の一大画期ですが、海舟の人生にとってもこの出来事が大きな転換点となりました。

1854年、日本に再上陸(横浜)したペリー一行(ヴィルヘルム・ハイネ 画)
1854年、日本に再上陸(横浜)したペリー一行(ヴィルヘルム・ハイネ 画)

 非常事態を受けて時の老中首座・阿部正弘は海防に関わる意見を広く募集。このとき海舟は洋式兵学校の設立と公式な洋書翻訳の必要性を説く意見書を提出し、これが正弘に注目されることとなります。

 この一件で海舟は目付兼海防掛だった大久保一翁(忠寛)の知遇を得て、安政2年(1855)1月に「異国応接掛附蕃書翻訳御用」という役職を得ます。いわば外務省勤務ともいえ、海舟はここで洋書の翻訳を中心とした業務に勤しみます。

 同年7月には長崎海軍伝習所での学習を命じられ、ここに「海軍の父」たる海舟のキャリアが始まったといえるでしょう。オランダ語に堪能だった海舟は教官と生徒たちの連絡役としても活躍し、およそ5年間を長崎で過ごしました。

『長崎海軍伝習所絵図』(鍋島報效会蔵)
『長崎海軍伝習所絵図』(鍋島報效会蔵。出所:wikipedia

 万延元年(1860)1月、日米通商条約を批准する遣米使節として海舟は咸臨丸で太平洋を横断。そこにはジョン万次郎や福沢諭吉など、そうそうたるメンバーが乗り組んでいました。ただし往路は激しい船酔いで日本人クルーのほとんどが動けず、同乗していた米海軍の士官らが主導して操船したとされています。

 出港から約140日の行程で同年帰国した海舟は蕃書調書へと異動。旗本としての格式も上がりましたが翌文久元年(1861)には講武所砲術師範を命じられ、事実上海軍からの更迭人事と解釈されることもあります。

 これは海舟が渡米の航海を通じて他のクルーたちと衝突したためともいわれますが、時化に弱いなど体質的にシーマンとして向いていなかったことの影響も想定されています。

海軍復帰~江戸無血開城


 文久2年(1862)、それまで海防策に消極的だった老中・安藤信正らが失脚すると旧・一橋派が復権。それに伴い海舟は軍艦操練所頭取、次いで軍艦奉行並として海軍に復帰します。

 翌年にかけて幕府要人らを艦船に乗せて江戸と大坂の間を往復し、第14代将軍・徳川家茂や公家の姉小路公知らに大坂湾の防備体制を実見させ、神戸港を国際的な中枢港湾として整備する案を提示しました。

 元治元年(1864)5月、海舟は軍艦奉行に昇進。安房守(あわのかみ)の官職名を賜ります。海舟を「勝安房(かつあわ)」と呼ぶことがありますが、それはこの官職名に由来した名乗りです。同年には神戸海軍操練所を開設し、海舟に私淑していた坂本龍馬らが入所して操船や海事を学んだことはよく知られています。

神戸海軍操練所跡碑(兵庫県神戸市中央区新港町)
神戸海軍操練所跡碑(兵庫県神戸市中央区新港町)

 しかし公議政体論の支持者であり、幕府という枠組みよりも日本という国家全体のための海軍という意識の強かった海舟は保守派と対立。同年7月の禁門の変に続く第一次長州征討で政局は幕府優位に進み、その見通しは一度ついえたかのように見えました。同11月、軍艦奉行を罷免された海舟は寄合という無役の身となり、これより約2年もの間蟄居生活を送ることになりました。

 しかし目まぐるしく時局が流動する中、慶応2年(1866)5月に軍艦奉行に復任。大坂へと移り第二次長州征討後の薩摩と幕府間の調停、同年9月には宮島で長州との停戦交渉など重要な渉外任務を果たします。そして明治元年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北し新政府が江戸へとその軍を向けることとなります。

 それまでに幕府の役職を辞任していた海舟ですが、最終的には陸軍取扱という職に就いて同年3月、薩摩の西郷隆盛と会談して江戸総攻撃を阻止するという、いわゆる「江戸無血開城」を成し遂げます。これには大久保一翁(忠寛)らの尽力もあり、江戸市中が戦場になることを回避した功績が評価されています。

「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑(東京都港区芝五丁目)
「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑(東京都港区芝五丁目)

維新後~最期


 同年、徳川家の駿府移転に伴い海舟はこれに従いますが、旧幕臣の筆頭として度々新政府に招かれています。外務大丞・兵部大丞・参議・海軍卿・元老院議官・枢密顧問官などを歴任し、後には伯爵位も受けています。

 しかし海舟は明治新政府への出仕には積極的ではなく、上記の役職も短期間の就任であったりそもそも辞退していたりという状態でした。ただ、版籍奉還や廃藩置県といった重要な政策決定の相談には応じており、明治5年(1872)には海軍大輔に就任。その翌年3月には島津久光を上京させるため勅使として鹿児島へ赴きました。

 同年10月には征韓論を巡って紛糾した政府から西郷隆盛が下野し、海舟は直後に海軍卿に任命されます。しかし翌明治7年(1874)に台湾出兵に反対し、明治8年(1875)11月に下野。これをもって海舟は中央政府での役を離れますが、そののちも依然強い影響力をもち、徳川家の後見や旧幕臣らのその後の処遇に心を砕いたことがわかっています。

 明治21年(1888)、枢密顧問官として大日本帝国憲法制定の審議に出席。このときは一言も発言しなかったとされますが、翌年の憲法発布後は書面で伊藤博文らを高く評価しました。

 「海軍の父」と称される海舟ですが西郷隆盛への同情や、後の日清戦争への反対など、主戦派ではなく広く協同して時勢に立ち向かうことを主張し続けた人物でした。

 明治32年(1899)1月19日、海舟は脳溢血により満76歳の生涯を閉じました。法名は大観院殿海舟日安大居士、その墓は別邸のあった東京都大田区の洗足池公園に建てられています。

おわりに

 「勝海舟」という名から想起される、どこか無頼でアンチェインな人物像。それは幕末の動乱期に実力で幕府の代表格に上り詰めた、叩き上げの経歴によるところも大きいでしょう。それでいて全力で戦いを回避しようとした一貫姿勢は、現代の私たちにも強い影響を与え続けています。




【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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