「マシュー・ペリー」“黒船”の主にしてアメリカ蒸気船海軍の父!実は学者肌の船乗りだった?
- 2021/04/16
その黒船は周知の通り、アメリカ海軍の東洋方面艦隊に所属する蒸気軍艦でした。司令官はマシュー・ペリーで、黒船の2文字からは有名な軍服姿の肖像写真を思い浮かべる方も多いかと思います。
あまりにも有名なトピックではありますが、ペリー提督の詳しいプロフィールは意外にもよく知られていません。そこで今回は、マシュー・ペリーの生涯について見てみることにしましょう。
出生~米艦隊司令官時代
日本史で「ペリー」として知られるこの人物は、フルネームを「マシュー・カルブレイス・ペリー」といいます。1794年4月10日、アメリカ海軍の大尉であったクリストファー・レイモンド・ペリーとその妻・セーラの三男として、アメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポートに生を受けました。
兄も海軍軍人となったことを受け、1809年にアメリカ海軍に士官候補生として入隊。わずか14歳と9か月という若さでのことでした。
1812年に米英戦争に従軍し、1814年にはニューヨークの商人ジョン・スライデルの娘ジェーンと結婚しています。1820年にアフリカ西海岸と地中海艦隊へ、1830年にロシアへ派遣されるなど世界各地で艦隊勤務を経験。1833年にはブルックリン海軍工廠の造船所長に就任します。
1837年にアメリカで2隻目となる蒸気フリゲート・フルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進したペリーは同艦の初代艦長となります。
1840年にはブルックリン海軍工廠の司令官に就任し、代将の地位に昇りつめます。この代将という階級は現代においては耳慣れないものですが、当時のアメリカ海軍での最上位階級は大佐であり、いまでいう「提督」相当の位置付けだったようです。
1843年にはアフリカ艦隊司令長官就任、1846年に米墨戦争が勃発すると蒸気軍艦・ミシシッピ号の艦長兼本国艦隊の副指令として参戦。メキシコ湾においてベラクルス上陸作戦を指揮し、のちに本国艦隊の司令長官も務めました。
アメリカ海軍の指揮官として要職を歴任し、近代科学技術の粋を集めた蒸気軍艦による艦隊をつくりあげたペリーは、「蒸気船海軍の父」と呼ばれています。
日本来航の時代
ペリーは1852年、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアより東インド艦隊司令長官兼遣日特使に任命。日本の開国を求める親書を託され、同年11月にバージニア州ノーフォークを出航しました。この時のペリーは軍事上・外交上、先例のないほど広範な自由裁量権を与えられたといいます。米墨戦争の際にペリーが座乗したミシッピ号を旗艦とした4隻の黒船艦隊は、大西洋廻りのルートで航海し1853年4月に香港投錨。5月にサスケハナ号を旗艦として上海・琉球を経由し、同年7月8日(旧暦では嘉永6年6月3日)に浦賀へと入港しました。
7月14日、幕府の指定した久里浜(現在の神奈川県横須賀市)に上陸し、浦賀奉行の戸田氏栄・井出弘道に大統領親書と全権委任状を手渡しました。
この際には具体的な協議の場は設けられず、開国要求を行ったのみでした。幕府からは回答に1年の猶予を求められ、湾の測量を行ったのち琉球を経由して中国で待機することになりました。
その間、アメリカ本土ではフィルモアからフランクリン・ピアースへと大統領が代わり、駐清米国公使とは太平天国の乱への評価や日本開国優先論を巡って対立しました。
ロシアのプチャーチンからは対日共同行動に関する提案がありましたがこれを拒否、列強諸国がこぞって日本を標的としていることに懸念を示しています。
1854年に3隻を加えた7隻艦隊を編成して香港を出航、同年2月13日(旧暦では嘉永7年1月16日)に横浜沖に肉薄し、早期開国を改めて要求しました。この動きに対して幕府は3月31日(旧暦3月1日)、神奈川においてついに日米和親条約を締結するに至りました。
およそ200年にもおよぶ鎖国状態にあった日本の開国に成功したペリーは、その後琉球・那覇に寄港。琉米修好条約を締結しました。
これらの任務を果たして艦隊は香港へと向かい、ペリーはそこで本国への帰還を申請。艦隊指揮権を委譲し、同年9月11日に英国船に便乗して西回りルートの海・陸路で帰国の途に就きました。
ニューヨークへの到着は翌1855年1月12日のことで、英雄としての名声を不動のものにしました。
同月22日にミシシッピ号が東回りルートでニューヨークへと帰還。その船上において24日、ペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行されました。
約46年にもおよぶ海軍軍人としてのキャリアでした。
晩年~最期
海軍を辞したペリーは、その晩年のほとんどすべてを日本遠征記などの出版に捧げたといいます。ペリーは常日頃から航海における暴風雨などからの安全確保に高い関心をもっており、琉球から江戸への航海時、風向や気圧、気温や水温、そして海流などの詳細な気象観測データを記録していました。
気象学者のウィリアム・レッドフィールドに日本遠征時の観測データを提供するなど、気象学分野の研究にも貢献しました。彼が執筆した『ペリー艦隊日本遠征記』にはレッドフィールドが著した太平洋の嵐に関する研究が収録されています。
かねてよりリウマチや通風、アルコール依存症などを発症して健康がすぐれなかったペリーは、1858年3月4日、ニューヨークで63年の生涯を閉じました。その魂は生まれ故郷であるロードアイランド州の、アイランド墓地に眠っています。
ペリーの人となり等に関するエピソード
日本史ではいわゆる「砲艦外交」をもって鎖国を終わらせた軍人で、少しおそろしげなイメージが根強いペリー。しかし、艦隊勤務で多くの時間を海に費やした彼もまた一人の父親であり、子供たちには兄弟が仲良く力を合わせるよう手紙で諭すなど、ごくふつうのよき家庭人としての顔が垣間見られます。また、アフリカ方面に展開した経験などから奴隷の帰国事業に力を尽くし、西アフリカのリベリア共和国などではその事績がよく知られているといいます。
ペリーは歴戦の海軍軍人ではありましたが同時に研究者的な感覚も持ち合わせた人物だったようで、日本開国任務にあたっては日本人の習性や文化など、考えうる限りの研究を尽くしたといわれます。
その結果としての威圧的な外交方針だったともいえますが、実際に日本人と接した経験からその手先が非常に器用であることを看破。将来的に機械工業分野で強力な競争相手になることを予見しました。
ペリーを実際に見た菅野八郎は、その体格を「六尺四~五寸(約192~195センチメートル)」と記録しており、とても大柄な人物であったことがわかります。部下たちからもその体格や態度、また大きな声などから陰では「Old Bruin」、つまり「熊おやじ」といったあだ名をつけられていたといいます。
余談ながら、アメリカ海軍の艦船には歴代大統領や軍人らの名が与えられますが、意外なことに21世紀になるまで「ペリー」の名が用いられることはありませんでした。
初めて「マシュー・ペリー」と命名されたのは2010年に就役したルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦の9番艦で、この艦は2011年の東日本大震災における救援活動にも参加しました。
おわりに
ペリーの事績を改めて追ってみると、未知の任務に周到な準備をもって果敢に挑んだ、いち職業人としての横顔が浮かび上がってくるようです。幕末の動乱を巨視的に見る際には、ペリーらの視点は今なお大きな示唆に富んでいるといえるでしょう。【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
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