平清盛って何をした人?どんな人?

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平清盛(たいら の きよもり、1118~1181)は何をした人(どんな人)でしょうか。次のうち、もっとも適切なものを選んでください。 ( 正解率は 82 % )

正解!

クイズ正解時のイメージ yes

 ざんねん…

クイズ間違い時のイメージ yes

答えは「武士として初めて貴族の最高位「太政大臣」に就任した」

  回答内訳

95人 が回答済です

新皇 (新しい天皇)を名乗り、独立国を作ろうとした(4回答)
4%
天皇の摂政を務め、天皇による中央集権を進めた(5回答)
5%
武士として初めて貴族の最高位「太政大臣」に就任した(78回答)
82%
鎌倉幕府をつくり、トップである将軍職に就いた(8回答)
8%

※未回答での閲覧回数は 6回

 解説

 平清盛は平安時代の武士で、貴族が政治の中心だった時代に台頭し、日本史上初めて武士がトップに立つ政権(※本格的な武家政権は鎌倉幕府の成立。)を作り上げた人物です。

 清盛は永久6年(1118)に平忠盛の子として生まれました。ただ出生に関しては謎の部分も多く、当時権勢を振るっていた白河法皇のご落胤だとする説もあります。清盛の家は武士で、祖先が桓武天皇につながる伊勢平氏でしたが、当時の武士は貴族と比べて身分が低かったのです。父の忠盛が武士としては初めて、天皇の住む清涼殿への昇殿を許されたほどでした。

 清盛も父同様、出世して貴族の身分となり、鳥羽上皇に仕えるようになりました。仁平3年(1153)に忠盛が死去し、清盛が後継者として一族の棟梁となります。その3年後に崇徳上皇と後白河天皇(のちに上皇、法皇)の兄弟による権力争いが勃発するのです。

 天皇家の争いに摂関家の藤原氏の後継者争いが絡み、保元元年(1156)に武力衝突する事態となります。いわゆる「保元の乱」です。清盛は有力武将だった源義朝らとともに後白河天皇側に付き、勝利に導きました。

 平治元年(1159)には、後白河上皇の側近たちの内部分裂から再び武力衝突へと発展してしまいます。この「平治の乱」では、二条天皇や後白河上皇を擁した清盛が、対抗勢力の一掃に成功して勝利。このとき清盛に敗れて殺された義朝の子・頼朝を捕縛しますが、清盛の継母・池禅尼が助命嘆願をしたため、頼朝は処刑をまぬがれて伊豆に流罪となりました。

 二つの戦いに勝ったことで、清盛は目ざましい出世を果たしていきます。仁安2年(1167)には貴族の最高位である太政大臣に昇進するとともに、平家一門も次々と出世し、栄華を極めるようになるのです。

この頃、清盛の妻の弟である平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したと言われています。ただ、後白河法皇をはじめ、公家たちのなかには平家が権力を握ることに不満を持つ勢力もあり、平家打倒の陰謀がたびたび企てられました。

 清盛は治承4年(1180)に孫である安徳天皇を即位させるとともに、日宋貿易の拠点だった神戸の福原に都を移そうとしました。しかし、東国で頼朝や木曽義仲ら源氏が相次いで挙兵したことで、平家は迎え撃つ態勢を整えなければならなくなります。

 そんななかで清盛は治承5年(1181)に高熱を発する病気に苦しみながら死去しました。清盛が命を助けた頼朝の軍勢によって平家が壇ノ浦で滅亡するのは、死去からわずか4年後のことでした。


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