真田昌幸が死の間際、子の幸村に言い残したこととは?

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関ケ原の戦いで敗者となった真田昌幸は、蟄居先の九度山で家康からの許しを期待しつつも、結局その想いもむなしく1611年に病没。死ぬ間際には、子の真田幸村に「とある事」を言い残したというエピソードがあります。

さて、その内容は何でしょうか?

( 正解率は 78 % )

正解!

クイズ正解時のイメージ yes

 ざんねん…

クイズ間違い時のイメージ yes

答えは「のちの大坂の陣を予言し、その戦い方も助言した」

  回答内訳

361人 が回答済です

家康に罪を許してもらうための策を伝えた(18回答)
4%
このまま蟄居生活を送り、静かに余生を過ごすよう伝えた(26回答)
7%
のちの大坂の陣を予言し、その戦い方も助言した(283回答)
78%
自分の墓を故郷に用意するよう頼んだ(34回答)
9%

※未回答での閲覧回数は 36回

 解説

若いころより武田信玄に仕え、武田滅亡後には真田一族の生き残りのため、主君をコロコロと変えていった真田昌幸。 実は徳川家康と因縁の間柄でもありました。

昌幸が居城とした上田城に、徳川軍に2度も攻め込まれましたが、いずれも撃退したこと(第一次・第二次上田城の戦い)はよく知られています。しかし、1600年の関ケ原の戦いで家康と対立していたことから、戦後に高野山に追放。1611年、無念にもその地で病没しています。

昌幸は死の間際、枕元に幸村を呼び、徳川家と豊臣家の武力衝突、すなわち大坂の陣(1614~15年)が起きること、そして合戦では籠城戦でなく、野戦によって徳川軍に奇襲をかける策を伝えた、というエピソードが残っています。


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