「沼田領の裁定(1589年)」とは? 北条と真田の沼田領問題に秀吉が裁定を下す!
- 2020/03/06
戦国大名にとって、その領土は命にも等しい大切なものでした。それは現代の国際社会の領土問題も同様です。先祖から受け継がれた土地を守ること、利益のために自国の領土を拡大していくことは戦国大名にとっても一番大切な使命です。
そんな中で東上野の沼田領は真田氏と北条氏が大いにもめた領土として知られています。今回は沼田領を巡る歴史と共に、「豊臣秀吉」が下した「沼田裁定」の内容とその背景についてお伝えしていきます。
そんな中で東上野の沼田領は真田氏と北条氏が大いにもめた領土として知られています。今回は沼田領を巡る歴史と共に、「豊臣秀吉」が下した「沼田裁定」の内容とその背景についてお伝えしていきます。
沼田領問題の発端
かつての沼田領
かつて東上野の沼田領は、関東に勢力を広げた北条氏(後北条氏)が領有。その後は上杉謙信に奪われるも、謙信の死後に起きた上杉家の家督争いである御館の乱では一時的に奪い返します。しかし天正8年(1580)には、上杉景勝の許可を得た真田昌幸によって沼田城を攻略され、真田氏の領土となりました。その後は武田氏が滅亡するまで沼田領は武田氏家臣である真田氏の領土だったのです。
武田旧領の争奪戦が勃発
しかし、天正10年(1582)に状況は一変します。武田氏が織田信長に滅ぼれると、真田氏は織田信長に従属することを選択し、沼田領を織田に譲渡。しかしそのすぐ後に本能寺の変が勃発して信長が横死すると、織田が支配して間もなかった武田旧領(信濃、甲斐、上野など)は大混乱に陥ります。沼田領を含めた関東一帯を統率する滝川一益も、北条軍との戦いで敗走。真田昌幸が空白となった沼田領をすぐに押さえて、再び取り戻すことに成功しました。以後、武田旧領は近隣の北条氏、徳川氏、上杉氏に加え、真田のような武田旧臣らによる争奪戦の場となるのです。いわゆる「天正壬午の乱」です。
主を次々に転じ、生き残りをはかる真田
大大名の北条、徳川、上杉と比べて国衆を束ねる小勢力の真田は、真っ向からぶつかり合える戦力を有していません。そのため真田氏はどの陣営に味方するのかで苦心します。真田昌幸はまず信濃国に侵攻した上杉氏に臣従。しかし北条の軍勢が迫ると北条に寝返るなど、故郷や自らが切り取った土地を確保するために主君を転々と変えて奔走しました。
やがて北条と上杉は和睦し、この武田旧領の争奪戦は「徳川 vs 北条」の様相を呈します。戦いの終盤には真田氏が徳川方に転じたことで形勢が逆転。北条は苦戦を強いられることになり、さらに常陸国の佐竹氏が上野国に侵攻したことで徳川氏との和睦を決断します。
徳川氏と北条氏の和睦
そして同年の10月に和睦となりました。仲介役は織田信雄です。このときに締結された内容には、- 甲斐国・信濃国で北条氏が占領した領土は徳川氏に譲渡すること
- 上野国は北条氏が切り取り次第とし、真田氏の沼田領は北条氏に譲渡すること
- 北条氏直の正室に家康の娘・督姫を娶らせ、同盟を結ぶこと
が盛り込まれています。
自ら切り開いた沼田領を守るために寝返りを重ねてきた昌幸にとって、この条件は到底受け入れられるものではありませんでした。納得のいかない昌幸は沼田領を手放すようなことはしません。つまり、ここに沼田領をめぐる問題が発生するのです。
秀吉による調停
沼田領をめぐる問題がきっかけとなり、当然昌幸と家康は不仲となっていきます。やがては両者決裂となり、昌幸は再び上杉氏に従属するのです。真田氏の領土を制圧しようと考えた家康は天正13年(1585)、徳川勢で上田城を攻め、北条勢で沼田城を攻めるも攻略できずに敗退(第一次上田城の戦い)。その後、上杉氏が秀吉に降ったことで、天正15年(1587)3月に真田も秀吉に従属することになりました。この時点ではすでに、徳川・上杉・毛利・長宗我部、といった戦国大名たちも秀吉に臣従しています。
北条氏の秀吉への臣従
九州平定を成し遂げ、関東と奥羽を除くほとんどを勢力下に置いた秀吉は、同年末に仮想敵国を関東の北条氏と奥羽の伊達氏として、関東・奥羽惣無事令を発令します。秀吉はこの指示に従わない者は成敗するという姿勢で天下統一をはかろうとしたのです。ただし北条氏はこれに従うことなく、上野国では北条氏邦が沼田領侵攻を繰り返しています。
天正16年(1588)5月、秀吉の意を受けた家康が起請文を添えて北条氏に氏直兄弟の上洛を促しました。その内容は、
- 今後も徳川氏と北条氏の同盟は継続していくこと
- 氏直兄弟の誰かが上洛して秀吉に御礼を伸べること
- 北条氏は秀吉に出仕(従属を意味)すること
- これを拒否した場合、督姫(家康の娘で、氏直の正室)を徳川方へ返してもらうこと
というものです。
北条氏はこの要請を受け入れ、同年8月には北条氏規が上洛して秀吉に謁見しています。ついに秀吉に従属することを決意したのです。秀吉は北条を赦免して関東の領域画定で上使を派遣すると関東諸将に通達しました。
沼田裁定の結論
秀吉は徳川氏と北条氏の和睦条件を巡る沼田領問題の実態調査を開始しています。北条氏に対してはこの経緯をよく知っている家臣の上洛を命じ、天正17年(1589)2月、氏直は家老の板部岡江雪斎を上洛させて事の経緯を報告させます。これを聞いた秀吉は沼田裁定を下しました。内容は「3分の2を北条氏が、3分の1は真田氏が所領とする」という折衷案です。さらに秀吉は氏政・氏直親子のどちらかが上洛するという一筆を提出したら、上使を派遣して該当する沼田領を北条氏に渡すと約束します。
6月には秀吉の側近が小田原へ向かい、氏直は隠居した父親の氏政が年内に上洛するという一筆をこの上使に渡しました。そして7月には秀吉は沼田に検使を派遣し、家康家臣の榊原康政の指示のもとで沼田領の引き渡しを行なわせます。このとき昌幸は案内役を命じられ、また、北条氏堯が請取人として派遣されています。
なお、秀吉は真田氏と北条氏で戦争が起きないように、北条方の軍勢の動員数を1000人程に限定するよう命じましたが、北条氏は無視して2万の軍勢で沼田城周辺に布陣しました。
同月中に引き渡しは完了し、北条方は沼田城に猪俣邦憲が、権現山城には吉田真重が配備され、一方の真田方は名胡桃城に家臣の鈴木主水を配備し、沼田領3分の2にあたる替えの地として家康から信濃国伊那郡箕輪領を与えられています。
こうして沼田領を巡る争いの決着がついたのです。
沼田裁定の影響
納得のいかない北条氏と真田氏
北条氏は、沼田領は譲渡することという徳川氏との和睦条件がありましたから、秀吉の沼田裁定には不満だったことでしょう。しかし秀吉に逆らえばその巨大な軍事力で滅ぼされてしまうことは容易に想像できます。天下のすう勢はすでに決まっているのです。だからこそ秀吉の沼田裁定に異を唱えずに氏政の上洛を決意したのです。
真田氏も実力で得た所領を奪われるのですから、いくら替え地を与えられるといっても納得はできなかったはず。もちろん真田氏の勢力ではとても秀吉に命令に逆らえるはずもありません。
このように北条氏と真田氏が不満を持ったまま引き渡しに至ったことは確かです。秀吉としては、北条氏の従属を確かなものにしたいがためにこのような裁定を行ったと考えられますが、はたして秀吉の本当の狙いはどこにあったのでしょうか。
北条氏討伐のきっかけとなる
秀吉の沼田裁定は、沼田領を巡る争いを鎮めるのとは真逆で、両者に火種を残しつつ、北条氏が秀吉の裁定を破り、真田氏の領土に攻め込むのを狙った戦略だったとも考えられます。実際、北条氏は同年11月には名胡桃城を強奪したことで秀吉の怒りを買い、北条氏征伐の大義名分を与えてしまいます。豊臣政権による小田原征伐により、北条氏が滅んだ後、関東の大名はそろって所領替えを命じられていますが、その中で真田氏は本領安堵と共に沼田領を加増されています。もしかすると沼田裁定が下った時点で、このようなシナリオが秀吉から真田氏に示されていたのかもしれません。沼田裁定は北条氏を陥れる罠だった可能性もあるのです。
おわりに
秀吉の沼田裁定は北条氏に配慮したものだったのか、それとも北条氏を滅ぼすためのものだったのか真実は謎です。ただし、幾多の血を流して奪い合った沼田領を北条氏、真田氏共にそう簡単に諦められるものでなかったことは確かでしょう。【参考文献】
- 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
- 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)
- 森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(洋泉社、2013年)
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