「名胡桃城事件(1589年)」とは?北条氏が滅んだきっかけとなった一大事件!

 豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし、天下を統一したのが天正18年(1590)です。北条氏はすでに秀吉に対し臣従することを約束していたのですが、秀吉の怒りを買って征伐されてしまいます。その発端になったのが北条氏による真田氏攻めとなる「名胡桃城事件」です。

 なぜそのような事件が起こったのでしょうか。今回はその背景についてお伝えしていきます。

名胡桃城事件の通説

沼田裁定による領土引き渡し

 名胡桃城事件が起こった背景には上野国の沼田領における領土問題があります。

 沼田領はかつて天正10年(1582)の天正壬午の乱で北条と徳川が対立したとき、和睦条件として沼田を北条のものとしていました。ただし、当時は徳川家臣だった真田昌幸がこれに納得しませんでした。自力で沼田領を支配していた真田は、和睦条件に従わずに北条に所領を明け渡さなかったため、沼田の地は長らく、真田と北条の争いの地となっていたのです。

 この沼田領問題は、豊臣秀吉が天下を掌握しつつあった天正17年(1589)、秀吉の仲裁により、
上野国の3分の2は北条氏の領土、残りの3分の1は真田氏の領土と定められました。

沼田領マップ。色塗部分は沼田領。青マーカーが北条、赤が真田の領地(沼田裁定後)。

 この裁定は、同年の2月に上洛していた北条氏の家老・板部岡江雪に伝えられ、7月に領土の引き渡しが行われています。これで上野国の領土問題は一件落着したはずでした。しかし11月に入り、北条氏は真田氏の所領である名胡桃城に攻め込むという、沼田裁定を台無しにする事件を引き起こしてしまいます。

 いわゆる「名胡桃城事件」です。これは北条が真っ向から秀吉にケンカを売ったことになります。臣従を約束しながらこの行動は不審ですし、また、巨大な勢力となっている秀吉に太刀打ちできないことも明白です。

 北条氏は自滅の道をたどったということですから、なかなか理解しがたい話ですよね。なので、この事件の通説に対しては、現代では様々な憶測や通説を否定するものがあるのです。

猪俣邦憲による名胡桃城強奪

 通説の名胡桃城事件とはどのようなものなのでしょうか。

 天正17年(1589)11月3日、北条氏邦の家臣である沼田城城主の猪俣邦憲が、真田氏の領土である名胡桃城を襲撃し、城主の鈴木主水を殺害する事件が起きました。

 『加沢記』によれば、主水の妻の弟(異説もあり)とされる名胡桃城番衆の中山九兵衛が邦憲に内応し、真田氏当主である真田昌幸の偽の命令書をこしらえて主水に渡し、主水を岩櫃城へ向かわせている隙に、九兵衛が北条勢を招き入れて乗っ取ったというものです。

 だまされたことを知った主水が名胡桃城に引き返したものの、時すでに遅く城は落とされました。主水は九兵衛と刺し違えようと尽力するものの、沼田城下の正覚寺で自害しています。

 これは江戸期に著された『北条記』、『吾妻記』、『関八州古戦録』にも同様の記載がされており、安房守(氏邦)の家臣の猪俣能登守(邦憲)という田舎武者が状況もよくわからず勝手な行動を起こして真田氏の名胡桃城を落としてしまったというものです。

 北条の当主である北条氏直は必死に釈明するものの受け入れてもらえず、秀吉は北条に宣戦布告をし、小田原攻めに至ります。

秀吉のイラスト
大軍勢で小田原攻めを行い、北条を滅ぼした豊臣秀吉。

 つまり北条氏の一門衆のさらにその家臣の身勝手な行動によって、関東の一大勢力であった北条氏は滅んだということ。邦憲は主家の北条氏を滅ぼした張本人という扱いになっています。

 これが事実ならとんでもない行動です。猪俣邦憲とは時勢がまったく見えておらず、そんなにも武功をあげることに飢えていた人物だったのでしょうか?

そもそも事件は秀吉のワナだった!?

 北条記をはじめとする江戸期に著された文献の大きな誤りは、邦憲を武蔵国に根付いた土豪の猪俣小平六範綱の末葉と記し、あたかも世間知らずの猪武者のような印象を与えていることです。

 実際の邦憲の正体は氏邦の先鋒を務め、柱となった富永助盛が天正8年(1580)以降に改姓したものです。譜代の家筋で、北条氏から絶大な信頼を受けています。そのような人物が主君の許しも得ずに勝手に和睦した相手の領土を攻めるでしょうか?

 名胡桃城事件後、氏直は釈明の書状をしたためていますが、そちらには名胡桃城主の中山から受けた報告をお伝えします、とあります。つまり氏直としては、名胡桃城は北条氏の領土であるという認識だったということです。さらに真田氏が吾妻領の中条(中之条町)を渡さず妨害しているというクレームも入れています。

 ここから推測すると、沼田裁定はもしかすると真田氏から北条氏に譲渡した領土は沼田領だけではなく、吾妻領の一部も含まれていた可能性があります。そうなると邦憲が勝手に攻め込んだのではなく、出て行かない真田氏を追い出すために動いた、ということも考えられます。

 北条氏を討つ口実を設けるため、秀吉と昌幸が結託して襲撃事件が起こるように仕向けたのでしょうか。通説とは真逆で、北条氏を陥れる秀吉の策略だった、という可能性も否定できません。

 実際に北条氏との窓口を務め、沼田領引き渡しにも同席している秀吉家臣の富田一白、深田盛月は、秀吉の戦線布告の際に左遷させられ、駿河国の三枚橋城に追い立てられています。

 これは真実を知る者の口封じともとれます。

氏直の釈明はすれ違いで時すでに遅し?

 秀吉は名胡桃城事件を北条氏の命令無視と判断し、11月24日に朱印状を氏直に送りつけ宣戦布告。そして全国の大名に対し、北条討伐の命令を下します。

 実際、京都に名胡桃城事件が広まったのは11月20日時点だったようで、秀吉の側近である和久宗是が、奥羽の一大勢力を誇る伊達政宗に北条討伐を知らせています。ただし問題は、この書状の中では事件には触れておらず、「氏政が上洛の約定を果たさないために北条討伐を実施する」旨が記されているのです。

 しかし、臣従を誓った際の約定では年内に氏政を上洛させるとなっているので、11月下旬の時点で氏政が上洛しないと難癖をつけるのには少々疑問が残ります。

北条氏政の肖像画(法雲寺所蔵)
上洛を渋っていた氏政もこのころは上洛の覚悟を決めていた?

 一方で秀吉は11月21日に昌幸に書状を送っており、そこには

  • 名胡桃城事件の犯人を成敗しない限り北条を赦免しない。
  • 境目の諸城に軍勢を配備し、来年春まで確保するように。
  • 必要があれば、小笠原貞政や北信濃の上杉勢を派遣する。

と記されています。

 さらにもはや北条氏の弁明の使者にも会うつもりはないという秀吉の強い意志も記されていました。事実上、北条討伐の決意表明です。ちなみに氏直はこの事件が起きた後の12月7日に、身の潔白を伝えるための書状をしたためています。

 ここでは名胡桃城は北条氏の領土であるという認識が記されていますが、この書状は左遷されて三枚橋城にいた富田一白らに送られたため、秀吉には渡っていないでしょう。

 氏直は2日後に家康にも取り直しを要望する書状を送っていますが、家康は秀吉の要請を受けて上洛した後でした。つまり北条氏としては、なぜ討伐命令が下ったのか理解できない状態であり、全国の大名としては、北条氏は秀吉の命令に逆らい、約束を破ったので討伐されて当然、という大きな認識の差が生まれていたと考えられます。

秀吉の小田原攻めは、最初から計画されていた?

 北条討伐については、名胡桃城事件が起こったからではなく、また氏政の上洛が約定違反だったからでもなく、もともと予定されていたものだった、という説もあります。

 理由のひとつは、名胡桃城事件が起こる20日以上も前に秀吉が長束正家に対し、小田原攻めのための兵糧20万石と2万頭の馬の飼料を用意するよう指示した書状が残されていることです。

 さらに越後国の上杉景勝に対し、軍役の指示をしており、そこには来春3月には小田原を攻めると記されているのです。秀吉は何らかの理由を見つけて北条攻めの大義名分とし、滅ぼすつもりだったと考えられます。もし理由が見つからない場合は、真田氏と共謀し、名胡桃城事件を誘発させる算段だった可能性もあります。

 名胡桃城事件は昌幸の嫡男である真田信幸からただちに家康に報告されていますが、家康は真田氏に加勢することをせず、それは秀吉に報告すれば済むことだと使者を送ることだけを信幸に指示しています。実は家康も、名胡桃城を北条討伐の火種とすることを事前に知っていたのではないでしょうか。

 真田氏の領土が攻められているというのに、家康はそんなことより贈り物が嬉しかったと信幸に礼を伝えているのです。予定通りだと言わんばかりの返答です。

名胡桃城攻めは猪俣の独断ではなかった!?

 氏直は、名胡桃城事件は当家の知らぬこと。家臣の一存で起こった事件であると釈明した、というのが通説ですが、本当に猪俣邦憲の独断専行の行動だったのでしょうか?

 そうであれば氏直はただちに邦憲を捕らえて処罰しているはずです。切腹ぐらいでは済まされないでしょう。斬首してその首を秀吉に差し出すことぐらいはするはずです。しかし実際は、その後も邦憲は沼田城の城主を任せられています。しかも事件後に前当主の氏政から激励の書状と贈り物も届けられているのです。

 これは天正18年(1590)正月の話ですので、当主の氏直が釈明に追われていた頃にあたります。それらの対応を考えると、名胡桃城強奪は北条の命令に従ったものだと考えられます。

 そして北条氏としては、これは強奪ではなく、秀吉の指示に従わず邪魔をする真田氏を追い出したという正当な行為だったという認識だったのではないでしょうか。北条が自分たちを滅亡に追い込む口実をわざわざ作る必要がありません。

 北条氏規だけが家康の家臣である酒井忠次宛てに「北条氏はもはや末期である」と嘆きの書状を送っていますが、これは秀吉と真田氏の罠に陥っていることに気づいていない氏直や氏政に対する愚痴だったのかもしれません。

おわりに

 通説通りだとどうにも腑に落ちない名胡桃城事件。でもこれが用意周到に行われた北条氏を滅ぼす罠だったと考えると納得はいきます。つまり無理矢理でっちあげられ、北条氏征伐の口実となるよう事件とされた可能性もあるのです。

 果たして真相はどうなのか。これは真田氏が北条氏に名胡桃城を奪われただけで、その功績を秀吉に認められ、北条氏滅亡後に加増されていることから、明白なような気がします。


【主な参考文献】
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
  • 森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(洋泉社、2013年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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