「足利義栄」在職期間わずか8か月、一度も京に足を踏み入れなかった第14代将軍

室町時代の後半は応仁の乱の余波で混乱が続き、将軍の権威が弱まり、影が薄い感があります。その中でも、第14代将軍・足利義栄(よしひで)はひときわ影が薄いかもしれません。なにせ、将軍在職期間は永禄11(1568)年の2月から9月までのたった8か月。これは第6代将軍・義勝と同じです。

また、義栄は一度も京に入らなかった唯一の将軍としても知られます。将軍であった期間があまりにも短いために評価は難しく、三好氏の傀儡であったとも評される義栄ですが、近年、将軍としての主体性が評価されつつあります。

足利義輝死後、将軍候補として

足利義栄は、足利義維(よしつな/義冬)の長男として、阿波国那賀郡平島(現在の徳島県阿南市那賀川町)の平島館で誕生しました。母は大内義興の娘です。

父・義維はかつて「堺公方」と呼ばれた人物で、実質将軍として幕政を担ったこともあったのですが、義維を後見した三好元長が細川晴元に殺されると権力を失い、阿波で失意の底にありました。

明応の政変以後、「義稙系」と「義澄系」の二系統に分かれた将軍家で、義稙系の流れにあった義維ですが、将軍職は義澄系の義晴(義維の実兄または実弟)が継承しており、その後も義晴の子・義輝が継いでいます。


つまり、義栄は生まれた時から正当な将軍の流れにないため、生年は天文5(1536)年7(1538)年9(1540)年説と複数あり、幼少期をどのように過ごしたかもよくわかっていません。

そんな義栄にスポットライトが当たったのは、第13第将軍・義輝が殺害された永禄8(1565)年のことです。義輝が三好義継、三好三人衆、松永久通らによって殺害されると、中風で将軍は務まりそうにない義維に代わって、子の義栄が次期将軍として擁立されたのです。

義輝が殺害された当時、京都では「三好氏は義栄を将軍にしようとして義輝を討った」という噂が広がっていたようで、公家の山科言継の日記『言継卿記』や、宣教師ルイス・フロイスの書簡にもそのように書かれています。

ただ、三好氏当主の義継に義栄を担ごうという気はなかったのか、義栄が阿波を出て畿内に渡るのは永禄9(1566)年9月23日のことでした。


将軍職を巡り、義昭と競う

義栄の将軍就任はスムーズにはいきませんでした。亡き義輝の弟で、仏門に入って一条院門跡となっていた覚慶が還俗して義秋(のちに義昭と改名)と名乗り、もうひとりの将軍候補となっていたのです。

足利義昭の肖像画(東京大学史料編纂所蔵)
将軍義輝の弟で、のちに15代将軍に就いた足利義昭

義輝殺害後、義昭は三好方によって幽閉されていたのですが、松永久秀が逃がしてしまったことで三好家中は内部で割れ、久秀・久通親子は義昭を擁立する側に転じます。

このように三好氏が内部で争っている間、義栄はいまだ畿内に入っておらず、グズグズしている間に義昭に先を越されることになります。

永禄9(1566)年4月21日、義昭が従五位下左馬頭に叙任されたのです。これは次期将軍が就くのが慣例となっていた官職でした。

9月23日、阿波から父とともに摂津国の越水城に入った義栄は、無位無官でありながら御内書を発給し、早くも将軍としての立場を意識して行動し始めます。

10月には朝廷へ太刀や馬を献上し、朝廷への根回しもぬかりありませんでした。

12月、同じ摂津国富田の普門寺に移った義栄は、同月24日に叙任を求め、28日に従五位下左馬頭に任官を許可されました。

これで官位官職では義昭に並んだ形です。翌永禄10(1567)年1月5日、初名の義親から義栄へ改名しています。

まだ正式に将軍に就任したわけではありませんでしたが、同年5月には室町幕府奉公人連署奉書を出して石清水八幡宮の社務職に新善法寺照清を補任しようとし、朝廷の反発を招きながらも無理やり人事に介入しています。

これは将軍の代替わりの際に社務職も交代する慣例にならったもののようですが、将軍宣下されてもいない状況下でのこの行動は、必ずや将軍にという並々ならぬ意志を感じさせます。

義栄の将軍就任

永禄10年中、義栄は朝廷に将軍宣下の交渉をしましたが、朝廷は11月16日に拒否しています。これは、義栄が朝廷の要求する献金に応じられなかったためとされています。

明けて永禄11(1568)年。義栄が年頭の御礼を申し入れると朝廷は認め、2月8日にとうとう将軍宣下がなされました。しかし、富田で宣旨を受け取った義栄はその地から動くことなく、上洛しませんでした。

義昭・信長との対決を前に死去

一方、対立する義昭はこのころ越前国の朝倉義景を頼って一乗谷にありましたが、同年7月には織田信長を頼って美濃の立政寺に移っていました。義昭上洛の準備が着々と進んでいます。

実は前年、義栄を支える三好氏の当主・三好義継は、自分をないがしろにする三好三人衆に不満を抱いて離れ、義昭方の松永久秀と手を組んでいました。


義昭が信長とともに上洛をめざすこの時、義昭陣営には久秀、義継もおり、義栄陣営は三好三人衆が六角承禎(じょうてい/義賢)を引き入れたとはいえ、明らかに劣勢でした。

案の定、上洛をめざす信長の軍を阻もうとした承禎は近江の観音寺城の戦いで大敗し、信長が摂津に入ると三好三人衆はそれぞれ敗れて阿波へ逃れ、易々と京へ入られてしまうのです。

観音寺城の戦いの場所、および、信長軍の上洛ルート

さて、信長が三好三人衆のひとり三好長逸(ながやす)の居城・芥川山城に入城したのと時を同じくして、腫物を患っていた義栄は9月30日に富田で死去しました。亡くなったのは10月7日であるという説もありますが、それにしたって早すぎるあっけない死でした。

おわりに

上洛を果たした義昭は、義栄の死によるものか、それとも解任されたのかは不明ですが、10月18日に第15代将軍に就任しています。

義栄の母方の祖父である大内義興はかつて強大な力をもち、第10代将軍・義稙の流浪時代、二度目の将軍就任を軍事面で大いに支えた人物ですが、義栄台頭のころの大内氏はほとんど滅亡しており、頼るべくもありませんでした。また、義栄を擁立した三好三人衆も久秀らとの対立が続き、さらに信長とは通交関係にあり、これも頼りなかった。

義栄の将軍在職期間は8か月と大変短いものでしたが、頼れる者が多くない中、将軍として主体性をもって働こうとしていました。

強い意志をもって将軍職を手にし、人材を集めて自分の政治をしようとした義栄。そんな彼の評価は見直されつつあります。




【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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