「永禄の変(1565年)」三好氏による足利義輝殺害事件。剣豪将軍の最期とは
- 2020/09/01
永禄の変(永禄の政変とも)は、永禄8(1565)年5月19日、13代将軍・足利義輝が殺害された事件です。三好義継、三好三人衆(三好長逸、三好宗謂/政康、石成/岩成友通)、松永久通らが将軍御所を包囲して将軍、奉公衆らをことごとく殺害してしまったのです。
これ以前にも政変によって将軍が代わることはありました(明応の政変)が、永禄の変は将軍が殺害されてしまうという、今までにない事件でした。変に至るまでの動きや、その後の影響などもあわせてみていきましょう。
これ以前にも政変によって将軍が代わることはありました(明応の政変)が、永禄の変は将軍が殺害されてしまうという、今までにない事件でした。変に至るまでの動きや、その後の影響などもあわせてみていきましょう。
三好長慶死の前後、将軍義輝の動き
将軍義輝と三好長慶は長く対立関係にありました。父である12代将軍義晴の代から近江に追われていた義輝ですが、京都奪回のため何度も長慶に挑み、和睦してはそれを反古にして再び敵対する、ということを何度か繰り返していました。
しかし、永禄元(1558)年に六角義賢の仲介によって和睦すると、5年ぶりに京都に戻ります。
義輝の復権
その後は御相伴衆に名を連ねた長慶との関係もようやく落ち着きました。長慶は依然として力をもったままでしたが、義輝復権の後は長慶による裁許状は出されなくなりました。永禄2(1559)年には織田信長、長尾景虎(のちの上杉謙信)らが上洛して将軍に拝謁しています。
義輝は主に外交面で将軍の権威を取り戻そうと積極的に動いていたようです。それ以前から、義輝は西日本で起こっていた戦国大名同士の抗争の調停をし、将軍として存在感を示してきました。
三好長慶は戦国初の天下人といわれるように、畿内で絶大な力をもっていました。しかし将軍と関係を築く地方の大名らのことは無視できない存在であったと思われます。
長慶の死後
永禄7(1564)年には、協調関係にあったとはいえ、長く敵対してきた因縁の相手である長慶が病死しました。前後して、長慶の嫡男・義興、長慶を支えた弟たち(十河一存、三好実休、安宅冬康)も亡くなり、三好氏は長慶の養子である義継(十河一存の子)が継ぐことになりました。
長慶の死は2年ほど秘されていたとされるので、義輝が長慶の死を知っていたかどうかはわかりませんが、三好氏が弱体化していく中、『信長公記』によれば義輝が三好氏に謀反を企てたといいます。義輝は幕府と将軍の勢力回復を図りますが……。
永禄の変
永禄8(1565)年5月19日、三好義継、三好三人衆、松永久通(久秀の嫡男)らはおよそ8000の兵を引き連れて義輝の御所を襲撃しました。将軍の奉公衆らの抵抗むなしくことごとく討ち取られ、義輝自身も自ら薙刀をふるい、刀を持って抵抗しましたが、殿中で追い詰められて亡くなりました。
その最期については、敵の槍に倒れたところを一斉に襲撃されたとか、切腹して自害したとか、さまざまに記録されています。
また、この事件では義輝の母・慶寿院と、弟で鹿苑院院主の周暠も殺害されました。
剣豪将軍・義輝
義輝は剣豪として知られる塚原卜伝の直弟子であったとされています。宣教師のルイス・フロイスの著書『日本史』には、義輝が薙刀や刀で応戦し、人々を驚かせたという記録があります。この剣豪将軍の最期は、江戸時代後期の歴史書『日本外史』では、義輝が伝家の宝刀を持ち、刃こぼれする度に取り替えながら30余人を斬った、というように、かなりドラマチックな武勇伝に変化します。さすがに時代がくだると創作の色が濃くなるようです。
将軍殺害の動機とは
義継ら三好氏が義輝を殺害した動機は何だったのか。そもそも最初から義輝を殺害するつもりで御所を襲撃したのか。これは諸説あり、真相はわかっていません。義栄を将軍の座に据えるため
義継らは義輝殺害がなると、かつて「堺公方」と呼ばれた足利義維(よしつな)の子である義栄(よしひで)を擁立し、永禄11(1568)年に将軍職に就任させています。山科言継の『言継卿記』には、義輝殺害の目的は阿波の義栄を将軍にするためではないか、と記されており、事件が起こった当時から義栄擁立が事件の動機であったのではないかとみられていたことがわかります。
義輝は、永禄元年以降三好氏と協調関係にあったとはいえ、将軍の権力復活を目指していました。その義輝と絶妙な力加減で付き合ってきた天下人・長慶はもう亡くなっており、若くして跡を継いだ義継にとって義輝は扱いにくい存在だったのかもしれません。
それゆえに、もともと三好元長の後見を受けていた義維の子である義栄を担いで傀儡にしようと目論んだのか。はたまた、単に義稙系と義澄系に分裂したままの将軍家をまとめようとしたのか。
18日に上洛し、翌日御所を取り囲んだ義継。「将軍に訴えたいことがある」という政治的要求が目的であったようですが、最初から義輝を殺害するつもりだったのか、それとも成り行きでそうなってしまった偶然の事件だったのか。いまだわかっていません。
義輝も警戒していたが……
義輝が無防備なところを襲撃されたように思える事件ですが、実は義輝自身も三好方の不穏な動きを察知してか、数年前から警戒していたようです。御所の四方に深堀、高塁などを堅固にするための工事をしていました。しかし、事件当時それはまだ完成されていなかったのです。松永久秀は首謀者か?
ところで、この永禄の変の首謀者は松永久秀である、と言われることがあります。江戸時代に書かれた『常山紀談』に、信長が家康に久秀を紹介する際、彼が行ったという三つの悪事について語るというエピソードがあります。そのひとつが義輝殺害なのです。ただ、この説は現在否定されています。永禄の変で御所を取り囲み襲撃したのは義継、三好三人衆、そして松永久通です。嫡男は当事者として関わっていますが、父である久秀自身はこのとき大和国にいたため、関与していないとされています。
義栄と義昭。将軍家の分裂は続く
将軍・義輝殺害は、前代未聞の事件でした。三好長慶は義輝と長く対立してはいましたが、どれだけ義輝が和睦を破ろうとも、刺客を送ってこようとも、義輝の命まで奪おうとはしませんでした。長慶は家格秩序を重んじ、将軍と諸大名との関係をよく見ながら絶妙なバランスで、生かさず殺さずやってきたのです。代替わりして当主となった義継は、養父のそういった慎重さを受け継いではいなかったのでしょうか。義継の母は九条稙通の娘で、摂関家の血筋です。その生まれが「将軍を立てよう」という気にさせなかったのかもしれません。結果、永禄の変はあちこちで反発を招きました。
当時、興福寺の一乗院に入っていた義輝の弟・覚慶(のちの義昭)は松永久通らに幽閉されますが、義輝の側近である一色藤長や細川藤孝、三淵藤英らの助けにより脱出すると、次の将軍候補として名乗りをあげます。
永禄9(1566)年4月、義昭は三好方が擁立した義栄に先んじて、次期将軍が就くとされる従五位下・左馬頭に任ぜられます。それに遅れること半年、義栄も同じ官位官職に。
結局、事件の動機とされる将軍家の分裂解消はならず、しばらく義栄と義昭の争いは続きます。永禄11(1568)年に義栄が14代将軍に立ちますが、同年には義昭が信長に奉じられて上洛。もともと病を得ていた義栄はそんな中で病死し、15代将軍に義昭が就任することになります。
ここにようやく将軍家の分裂は解消されるわけですが、幕府はすでにほとんど形骸化されています。はたして、名前ばかりの幕府に存続する意味はあるのか。
この後は義昭とともに上洛した信長が台頭し、義昭は信長によって追放されることになるのです。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
- 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
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