「足利義昭」将軍権力にこだわり、執拗に信長と対立したその生涯とは
- 2019/09/05
天下統一をめざす織田信長の追い風となり、向かい風にもなった存在が、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかが よしあき)です。義昭は信長のおかげで将軍になれるのですが、やがてその信長に京都を追い出されることになってしまいます。
将軍の権威回復のために精力的に行動した義昭とは、はたしてどのような人物だったのでしょうか?
将軍の権威回復のために精力的に行動した義昭とは、はたしてどのような人物だったのでしょうか?
【目次】
僧として過ごすも、兄義輝が殺害され…
将軍義晴の二男として誕生
義昭は、天文6年(1537)、室町幕府12代将軍である足利義晴の二男として誕生しました。母親は近衛尚通の娘で、1歳違いの兄には足利義輝がいます。将軍家でも嫡男と二男ではやはり扱いは大きく異なりました。義輝が将軍御所で育てられるのに対し、義昭は伯父である近衛稙家の猶子として、6歳で興福寺一条院に入室。のちに覚慶という法名を名乗ります。
時代は細川政権から三好政権へ
当時の世の中はというと… 応仁の乱以降に将軍の権威が失墜して群雄割拠の戦国時代に突入していました。中央政権の権力者は管領の細川晴元が掌握。ただし、細川一門とその家臣らによる覇権争いが絶えず起こっている状況だったので、かなり不安定な政権だったといえます。義晴・義輝父子は晴元を支持していたので、この争いに翻弄される人生を送りました。
天文18年(1549)には、三好長慶が晴元を追い出して三好政権が誕生し、翌年には義晴は病没しています。兄の義輝は晴元と組んで三好長慶と対立。双方が和解して協調関係を築くようになるのは、永禄元年(1558)のことです。将軍でありながら、義輝が実に10年近くも三好政権と敵対し続けていたのは驚きです。
一方、一条院門跡を継ぐ修行をしていた覚慶(のちの義昭)はこのときすでに22歳。そして4年後の永禄5年(1562)には門跡(住職)にもなっており、この先は興福寺別当に進むかと思われましたが、長慶が病没したことで状況が一変するのです。
兄義輝が殺害される
三好政権下で兄義輝は将軍の権威回復に尽力し、順調にことを進めていました。しかし長慶の死後、後継者の三好義継、三好三人衆、松永久秀らは将軍の権威が強まるのを良しとしなかったため、衝撃の事件が勃発。いわゆる永禄の変です。義継らは足利義維を引き込んで、その子である義栄を次期将軍にすべくクーデターを決行。将軍御所を襲撃して現将軍の義輝を殺害するのです。
これは永禄8年(1565)、義昭が29歳の時のことでした。
以後、三好義継らは一条院にいる義昭の動向も警戒し、監視をつけます。しかし、幕府の奉公衆である細川藤孝や和田惟政はこの動きに反発。そして義昭の母方の伯父にあたる大覚寺門跡・義俊の力も借りて、義昭を一条院から脱出させることに成功。ただでさえ衰退していた室町幕府は、義栄派と義昭派に分裂してしまうことになったのです。
各地を放浪し、幕府再興を掲げる
奈良を脱出してから、各地を転々
一条院を脱出した義昭は、近江国の戦国大名・六角義賢の許可を得て、惟政の館のある甲賀郡に潜みました。しばらくすると、さらに京都に近い野洲郡矢島村に御所を開き、翌永禄9年(1566)には還俗して、足利義秋と名乗っています。義昭は自分が足利氏の正当な当主であることをアピールしたのです。しかし、突如、三好三人衆が矢島を襲撃。ここは奉公衆らの活躍で撃退に成功しますが、頼りの六角氏も三好三人衆に内通していることが発覚し、義昭は矢島を捨て、妹婿である武田義統を頼って若狭国へ逃れました。
ただし、若狭国も義統と嫡男の元明がもめており、義昭はすぐに越前国の朝倉氏を頼っています。『言継卿記』によると、義昭が若狭国に逃れた際のお供の数はわずか5人だったと記されています。まさにどん底の状態で、とても上洛して将軍職に就くなど夢物語でした。
諸大名に向けた加勢の御内書
義昭もただ逃げ回っていたわけではありません。地方で勢力を拡大する戦国大名らに書状を送り、上洛の協力を求めています。将軍が発する書状を御内書と呼びますが、この頃の義昭は正確にはまだ将軍ではありません。しかし、受け取る側からすると御内書と同じ扱いだったのではないでしょうか。
義昭は様々な戦国大名に協力を要請する書状を送っています。記録が残っているだけでも、以下の大名がいます。
- 上杉謙信(越後)
- 武田信玄(甲斐)
- 北条氏康(相模)
- 由良成繁(上野)
- 斎藤龍興(美濃)
- 織田信長(尾張)
- 畠山義綱(能登)
- 朝倉義景(越前)
- 六角承禎(近江)
- 十市遠勝(大和)
- 赤井直正(丹波)
- 吉川元春(安芸)
- 相良義陽(肥後)
- 島津貴久(薩摩)
- etc・・・
室町幕府の再興を掲げて上洛を狙っていた義昭は、各地の大名らに強い影響力を持っていました。実際、信長と龍興の和睦の調停を行ったり、信長と近江国の浅井長政の姻戚関係を成立させるなどしています。中でも義昭がもっとも頼りにしていたのが軍神の異名をもつ上杉謙信です。しかし謙信は武田・北条との戦いもあり、上洛のための軍を動かす余裕はありませんでした。
そんな状況に義昭も上杉と武田・北条を和睦させることに力を注いだようですが、なかなか上手くいかなったようですね。
各地の戦国大名たちはそれぞれに思惑があり、隣国との領土争いが続いている中、誰ひとり本気で義昭の上洛に力を貸してくれる者はいませんでした。義昭に協力し、上洛のために拠点を離れれば、たちまち隣国に侵攻されるのですから当然といえば当然です。
越前に滞在も、朝倉は動かず。
永禄10年(1567)11月から義昭は越前国一条谷の安養寺で暮らすようになりました。朝倉氏に完全に世話になるようになったのです。義昭は朝廷から従五位下左馬頭に叙任されていましたが、このまま一条谷に落ち着いていたのでは征夷大将軍に任じられることはありません。永禄11年(1568)4月に元服し、義秋から義昭に改名したものの、朝倉義景は一向に上洛する気配を見せず、義昭としてはじれったい思いをしていたことでしょう。
念願の上洛、そして15代室町幕府将軍へ
織田氏を頼って岐阜へ
そんな中、信長が美濃国の稲葉山城を陥落させ、龍興を追い出して美濃国を制圧します。そして信長は本格的に上洛を決意し、義昭を岐阜に招きました。義昭としてもこのままではいつまでも上洛はできないと、義景を見限り、一条谷を離れ岐阜に向かう決断をします。義景がそれを知ったのは義昭が出立する25日前のことだったようで、おそらく裏切られた気持ちだったことでしょう。以後、信長と義景は長く対立していくのです。
この決断で義昭の運命は大きな転換期を迎えることになります。上洛して征夷大将軍となり、室町幕府を再興するという夢が現実味を帯び始めます。
征夷大将軍の宣下を受ける
義昭を岐阜に招聘してからの信長の動きはとても迅速で、永禄11年(1568)6月に義昭が岐阜に到着すると、8月には佐和山城で浅井長政と上洛の打ち合わせをし、9月には6万の軍勢を率いて出陣しています。六角氏は信長の上洛に抵抗するものの支城をあっさりと攻略されて逃亡、京都を支配していた三好三人衆も信長の勢いを怖れて阿波国へ退きました。入京し東寺に本陣を置いた信長はそのまま山城国、摂津国へも兵を送り制圧していきます。
後から岐阜を発った義昭は、悲願の入京を果たし清水寺に着陣すると、10月には征夷大将軍の宣下を受けました。三好三人衆に擁立されていた14代将軍の義栄は直前に病没したため、ここに義昭は室町幕府15代将軍となることができたわけです。
信長への感謝の気持ちはひとしおで、義昭は副将軍か管領のポストを信長へ勧めましたが、信長はこれを辞退しています。おそらく信長には、義昭を支えて室町幕府を再興する気持ちなどなかったからでしょう。そんな信長の心中など知らず、義昭は、岐阜に帰還する信長に対し、「御父」という言葉を用いて感謝を伝えています。
連合政権に亀裂。信長と対立へ
信長の幕府傀儡化の動き
義昭が将軍となってからしばらくは義昭と信長による連合政権の状態が続きます。もちろん経済力、軍事力ともに信長が圧倒していますが、義昭はあくまでも武家の棟梁である将軍であり、畿内幕府料所の税や市中の地子銭といった経済基盤が確保され、畿内の守護の軍事指揮権も認められていました。わずかな供回りだけで諸国を放浪していたときとは大きな違いです。義昭としても信長を頼った判断は正しかったことを再認識し、これで室町幕府は再興できると確信していたに違いありません。
しかし上洛してからの義昭と信長の間には少しずつ距離が生まれていきます。将軍としてのリーダーシップを発揮しようとする義昭が、より勢力を拡大して天下布武を目指す信長にとって目障りな存在になってきたのです。
永禄12年(1569)に制定された殿中掟9ヶ条、並びに追加された7ヶ条は、幕府の規定を再確認するものであると同時に、御内書を出すにも信長の許可が必要であるというように、信長による幕府傀儡化の第一歩となっています。
反信長連合の動き
信長は諸国の大名に上洛を促しますが、越前国の朝倉氏はこれを拒否し、永禄13年(1570)4月、信長は上意と勅命のもと出陣します。幕府や朝廷を利用し、逆らう勢力を掃討していく戦略です。しかし、浅井氏が離反、さらに六角氏や本願寺、三好三人衆、比叡山延暦寺なども信長に反発したため、信長は危機に陥ります。このときに義昭は和睦の役割を担っています。義昭としては信長に恩を売って、信長を上手くコントロールしたかったのかもしれません。
信長は危機を脱すると、態勢を立て直して敵対勢力を退けて勢力を拡大していきますが、逆に義昭はどんどんと存在感を失っていきました。やがて義昭は反信長の中心人物として水面下で動くようになるのです。
そんな中、反信長の動きに加わってきたのが、あの武田信玄です。
当時、信長は信玄と同盟を結んでいましたが、信玄は義昭の要望を受けて元亀3年(1572)10月、西上のために出陣しました。武田勢はまたたくまに徳川氏の領土に侵攻していきます。
義昭はこの報告を聞いて喜んだに違いありません。信玄が信長を追い出してくれれば、室町幕府を本当の意味で再興できると考えていたからでしょう。
信長は義昭の存在が完全に邪魔になっており、信玄の西上作戦が始まる直前に、義昭に対してその政治力や人間性を痛烈に批判する十七カ条の異見書を突きつけています。この時点で義昭と信長の関係は完全に崩壊していたのです。
信長に敗れて京都から追放。その後は…
義昭挙兵するも、あえなく敗退
信玄の快進撃を聞き、もはや信長は倒せると計算したのか、元亀4年(1573)2月、義昭は正式に打倒信長の兵を挙げました。しかし、信玄が病で倒れたため武田勢は甲斐国に引き返しており、勝ち目のない戦になってしまいます。朝廷の仲介によって一度は和睦するものの、義昭の打倒信長の気持ちは揺るがず、7月には二条御所から槙島城に移り徹底抗戦の構えを見せます。
もちろん信長の軍勢に勝てるわけもなく、あっさりと落城。義昭は息子の義尋を人質として信長に差し出し、京都を追放されました。歴史的にはここで室町幕府は滅亡したとされています。
各地転々とした後、毛利を頼る
ただし、義昭は実際には信長より長く生きました。京都を追放されてからは河内国の若江城や和泉国の堺に移り、毛利氏を頼りにしたいもののなかなか受け入れてもらえず、紀伊国の興国寺に長く留まっています。毛利氏の庇護下に入れたのは、備後国に移り住んだ天正4年(1576)のことです。その間も義昭は打倒信長のために御内書を各地の大名たちに送りつけています。
やがて信長は本能寺の変によって亡くなり、後継者の座を手に入れた秀吉に対して、義昭は将軍として島津氏との和睦などの仲介をしています。
なお、本能寺の変の原因究明の議論の中で、光秀を陰で操っていたという黒幕説が存在しますが、その一つに藤田達生氏が提唱した足利義昭黒幕説もあります。
秀吉に降って大坂へ
天正15年(1587)に島津氏が秀吉に降伏し、九州が平定されると、義昭は秀吉の招きに応じて入京します。関白となり絶大な権力を誇る秀吉を見て、さすがの義昭ももはや幕府再興の夢を諦めたようです。天正16年(1588)、義昭は将軍職を辞して出家し、昌山(法名は道休)と号しました。秀吉より1万石の知行を得、大坂に住居を構えるだけでなく、かつて京都を追われる際に抵抗した山城国槙島に私邸を持ちました。
秀吉に降ってからの義昭は、朝鮮出兵のため肥前国名護屋まで秀吉に従事し、小早川隆景の第一隊に続く第二隊3500を率いたと記録されています。その後は御伽衆のひとりとして秀吉の話し相手を務めていましたが、慶長2年(1597)に病没しています。
義昭の長子である義尋は、興福寺大乗院の法嗣として入院しており、義昭の正統な血筋は途絶えています。
おわりに
義昭の室町幕府再興への執念は凄まじいものがありましたが、それ以上に信長への並々ならぬ対抗心に驚きます。かつては御父とまで尊敬の意を表していただけに、幕府を傀儡化しようとする信長の本性を知って裏切られた気持ちが強かったのでしょう。信長の死後は憑きものが取れたかのように幕府再興の熱意が薄らいだようにも思えます。武家の棟梁としての意地が、武家の新興勢力である信長への対抗心の支えになっていたのかもしれません。一方で、だからこそ武家ではなく関白である公家の秀吉に対しては、あまり抵抗なく降伏できたのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中公新書、2014年。
- 奥野高広 『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年。
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