【福井市立郷土歴史博物館コラボ企画】「明智光秀と越前」その関わりを探る 後編

前回、福井市立郷土歴史博物館協力のもと、明智光秀と越前の関係に関する記事を寄稿していただきましたが、今回はその後編です。

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織田信長と明智光秀の家臣だった武将の中には、本能寺の変後、越前国内の領主になるなど、越前に深く関わった人たちがいます。彼らの本能寺の変での対処や、その後の動向を紹介します。
(文=福井市立郷土歴史博物館 学芸員 白嶋祐司)

光秀に翻弄された男たち ~四王天政実~

四王天(しほうでん)又兵衛政実は丹波国(京都府北部)出身で光秀に仕え、本能寺の変では信長の側近、森蘭丸(乱丸)を討ち取ったとされます。

明智氏滅亡後は各地を転々とした後、紀伊国湯浅(和歌山県湯浅町)で身を隠していましたが、旧友であった領主青木秀以(重吉)に100石で召し抱えられています。その後、秀以の越前北庄移封に随伴し、1000石を与えられ、舟橋の管理を任されています。

北陸道(北国街道)が黒龍(くろたつ)川(九頭龍川)を渡る場所にあった舟橋(現九頭龍橋、福井市舟橋町)は、天正年間に柴田勝家が架設したとされ、領内の刀狩で得た材料で 48艘 の舟を繋ぐ鎖がつくられたと伝わります。

四王天家は青木氏断絶の後も、江戸時代を通して舟橋の管理を任されています。

国史画帖大和桜(福井市立郷土歴史博物館蔵)
国史画帖大和桜(福井市立郷土歴史博物館蔵)

『絵本太閤記』の一場面。光秀の家臣として四方田但馬守が登場し、織田信長を討った光秀を討伐するために秀吉が京に向かう途中、光秀方の計略により孤立し、鬼の形相をした四方田に追われる姿を描いています。

越前国名跡考(写本、黒龍川舟橋図。福井市立郷土歴史博物館蔵)
越前国名跡考(写本、黒龍川舟橋図 福井市立郷土歴史博物館蔵)

手前右側に見える屋敷が四王天家の屋敷も兼ねる舟橋奉行所と思われ、この場所は「太平記」にも記される南北朝期の勝虎城(しょうとらじょう)があった所と伝わります。

光秀に翻弄された男たち ~柴田勝家~

柴田勝家は初め信長の弟・信行に仕えていましたが、信長配下に転じ、家臣団の筆頭として政権を支えました。光秀とは浅井・朝倉攻め、越前一向一揆攻めなど、多くの戦場へ共に出陣しています。

天正3(1575)年に越前を与えられ、北庄城を築きました。本能寺の変時には北陸方面で上杉景勝と対峙していたため、弔い合戦に参戦できませんでした。

国史画帖大和桜 柴田勝家像(福井市立郷土歴史博物館蔵)
国史画帖大和桜 柴田勝家像(福井市立郷土歴史博物館蔵)

豊原寺跡(福井県坂井市)
豊原寺跡(福井県坂井市)

越前一向一揆攻めの際、信長の陣が一時期置かれています。寺の周辺で生け捕った一揆勢を皆殺しにしたなど過酷な処罰が行われたという記録が残ります。

光秀に翻弄された男たち ~丹羽長秀~

尾張出身の武将で、若年より信長に仕え、勝家らと並ぶ重臣となりました。
安土城普請の総奉行を務めるなど政務・軍事面で大きな功績を残し、光秀と共に行動することも多数ありました。本能寺の変時は、四国攻めを控え堺に陣を置いていましたが、多数の兵が逃亡し混乱に巻き込まれています。

その後、秀吉と合流し山崎の戦いに加わり、秀吉の配下となっています。天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦い後、勝家の旧領である越前と加賀の一部を与えられましたが、同13(1585)年に越前で病没しています。

総光寺(福井市つくも二丁目)に墓所が残ります。

丹羽長秀墓
丹羽長秀墓

光秀に翻弄された男たち ~堀秀政~

 美濃出身の武将で、若年より織田信長に仕えました。信長の下では側近として政務・外交・軍事面など多方面において活躍しています。

光秀とは紀伊や播磨攻めなどで、共に従軍しています。本能寺の変時は、信長の使いで秀吉の陣におり、山崎の戦いでは秀吉方に加わりました。

その後は秀吉に仕え、賤ヶ岳、小牧・長久手、紀州攻め、九州攻めなどの戦に参加しています。天正13(1585)年に北庄城を与えられています。同18(1590)年の小田原征伐に参戦していましたが、38歳で陣中にて病没しています。

肖像画は菩提寺である長慶寺(浄土真宗本願寺派 福井市西木田)に伝わったものです。寺では毎年、命日の5月27日に墓前祭が行われています。

堀秀政像(長慶寺蔵)
堀秀政像(長慶寺蔵)

明智左馬介琵琶湖ヲ乗切(福井市立郷土歴史博物館蔵)
明智左馬介琵琶湖ヲ乗切(福井市立郷土歴史博物館蔵)

山崎の戦いの際、安土城は秀満(左馬介)が守っていましたが、敗戦を知り安土を退去して坂本城へ向かいます。しかし、行く手を堀秀政の軍勢に阻まれたので、馬で琵琶湖を渡って坂本に向かったと伝わります。

本作品は、湖を渡り切って休む秀満を描いたもの。坂本城に入った秀満は堀秀政に攻められ、光秀の妻子を斬った後に城に火を付け自害します。

光秀に翻弄された男たち ~長谷川秀一~

長谷川秀一は尾張出身で、父とともに信長に仕え、側近として活躍しました。光秀との関係は明確ではありませんが、秀一を通して信長の命令が伝えられることも多くあったと考えられます。

本能寺の変時は、徳川家康・穴山信君に対する京・堺見物の案内役を務めていました。変を知ると、家康の本拠地岡崎までの逃避行に道案内などに協力します。

その後、秀吉に仕え天正13(1585)年に越前東郷の地を与えられました。東郷を本拠地として数々の戦いに参加し、秀吉から羽柴・豊臣の姓を与えられています。

肖像画は、文禄2(1593)年に亡くなった秀一の菩提寺である永昌寺(曹洞宗 福井市東郷ニヶ町)に伝わっています。

堀秀政像(長慶寺蔵)
長谷川秀一像(永昌寺蔵)

東郷(槙山)城跡
東郷(槙山)城跡

東郷(槙山)城は、15世紀初め頃に朝倉正景によってつくられたとされ、朝倉氏が一乗谷を本拠とすると、その支城として整備されたと考えられています。その後、秀一により近世的城郭に改変されています。

秀一没後は丹羽長重が城主となりますが、関ヶ原の戦いで西軍につき領地を没収され廃城となりました。現在は空堀や土塁などが残っています。

あとがき

信長生前時は柴田勝家、秀吉政権になっても、丹羽長秀、堀秀政など、旧織田家臣の中でも重臣クラスの武将が越前を領したことから、いかに越前が重要な地であったかがわかります。



【参考文献】
  • 福井市立郷土歴史博物館特別展図録「明智光秀と越前-雌伏のとき-」2020年


福井市立郷土歴史博物館について


福井市立郷土歴史博物館
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常設展示室では、古代から近代にいたる福井の歴史を、「ふくいのあゆみ」「古代のふくい」「城下町と近代都市」「幕末維新の人物」の 4つのテーマに基づき、分かりやすく紹介。

松平家資料展示室では、福井藩主松平家伝来の歴史資料や美術品などをテーマを変えて展示しています。
屋外展示として、江戸時代の福井城の門「舎人門(とねりもん)」と外堀・土橋・土塁が復元され、江戸時代の雰囲気を体感できます。

ホームページ
福井市立郷土歴史博物館HP
所在地
福井県福井市宝永3丁目12-1
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