【福井市立郷土歴史博物館 コラボ企画】「明智光秀と越前」その関わりを探る 前編

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」はいよいよ越前編に突入します。それにあわせ、今回は福井市立郷土歴史博物館協力のもと、明智光秀と越前の関係について解説していただきました。(全2回)
以下、その前編です。

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明智光秀は、本能寺の変で主君の織田信長を討った天下の謀反人として知られる武将です。また、経歴の初期に朝倉義景のもとにいたとされることや、信長軍の一員として、たびたび越前(福井県北部)に侵攻するなど、越前にゆかりのある人でもあり、その関係を紹介します。
(文=福井市立郷土歴史博物館 学芸員 白嶋祐司)

越前と美濃~光秀と朝倉氏~

 織田信長に仕えるまでの光秀の出自については様々な説がありますが、残された資料が少なく明らかではありません。

一説には、美濃守護土岐氏の一族である明智氏に生まれるも、その後に起こった美濃の内乱に巻き込まれて破れ、越前の朝倉氏のもとに逃れてきたとされています。

越前と美濃の関係をみていくと、朝倉義景の祖父、貞景は美濃守護代斎藤利国の娘を妻とし、その娘は美濃守護土岐頼武に嫁いでおり、朝倉氏と土岐氏は強固な同盟関係にありました。そのため、美濃の内乱に朝倉氏が出兵することも度々あったようです。

また、土岐氏の根拠地のひとつである大桑城下町(岐阜県山県市)は、朝倉氏の本拠地である一乗谷(福井県福井市)をモデルにして整備されたと考えられています。

それを示す例として、両者とも谷の中に立地していることや、「越前堀」という字名が残り、その場所は越前の人々が掘った堀の跡と伝わります。さらに、日常雑器である瀬戸・美濃焼は、越前でも広く流通しており、その交流の深さがうかがえます。

両国は隣国であるとともに、物心両面で近いイメージがあり、光秀もこうした縁を感じて越前にやって来たということも考えられます。

一乗谷
朝倉氏の本拠地・一乗谷
大桑城下町
大桑城下町

一乗谷の伝承

朝倉義景は家臣の斎藤兵部少輔の息女である小少将(小将)を側室としました。

斎藤兵部少輔は美濃斎藤氏の一族とも考えられており、小少将の屋敷跡とされる一乗谷の「諏訪館跡」の庭園には美濃から運んだとの伝承がある巨大な立石があります。

諏訪館跡庭園
諏訪館跡庭園

また、遺跡内にある御所・安養寺跡は、足利義昭が滞在した場所と伝えられています。

将軍になる前の義昭は協力者を求めて各地の有力者のもとを転々としていました。一乗谷には朝倉義景を頼るため、永禄10(1567)年11月から翌年7月まで滞在しました。

安養寺は一乗谷にあった大規模寺院で、京から文化人が多数訪れており、迎賓館的な役割を担っていたことから“御所”がつくられたと考えられています。

御所・安養寺跡
御所・安養寺跡

ここで光秀と義昭が面会した可能性も考えられます。また、後に光秀と親しくなる細川藤孝(当時は義昭の家臣)も滞在していたと思われます。

 しかし、「朝倉始末記」など朝倉氏関係の記録には、光秀が朝倉氏に仕えていたとの記述はなく、それを裏付けることはできません。

称念寺の伝承

称念寺(福井県坂井市丸岡町)には、美濃から逃れた光秀は門前に住み、寺子屋を開いて生計を立てていたとの伝承があります。また、同寺の園阿(えんな)上人の推薦により朝倉氏に仕えたとも伝えられています。

称念寺
称念寺

しかし、これらのことは、朝倉氏の記録や越前で作成された公的な地誌(郷土史)から確認することはできません。別の史料から、称念寺にいたことは確かだと考えられていますが、越前に関わる記録に光秀の名が見られないのは不思議に思えます。

また、称念寺から北に500m程離れた所に「黒坂備中守館跡(舟寄館跡)」という城館跡があります。黒坂氏は地侍と考えられており、一族は朝倉氏とともに一向一揆や姉川の戦い等に参加しています。

黒坂備中守館跡(舟寄館跡)
黒坂備中守館跡(舟寄館跡)

江戸前期の軍学者、山鹿素行が著述した歴史書『武家事紀』には光秀は黒坂備中守に仕えたとの記述があります。館跡は現在、工場の敷地となっていますが、その一部に石碑と工場の造成の際に出土した黒坂家一族のものだという宝篋印塔が建っています。

光秀がいつやってきて、どこで、どのような立場で暮らしていたのかなど、当時の詳しい状況はわかりませんが、両所とも光秀の面影が感じられる場所であることは間違いないようです。

東大味町の伝承

福井市東大味町の伝承は、朝倉氏に仕えていたときに、現在、明智神社が建つ場所に住んでいたというものです。

また、信長に仕えた後に越前に攻め入った際、光秀がかつて暮らした地を戦禍から守るために、柴田勝家らに村を守る書状を出させたということも伝えられています。

村が守られたのは光秀のおかげということで、顕彰のために木像をつくり400年以上守り続けてきたとされています。

明智光秀木像
明智光秀木像

一方、享保5(1720)年に、城館を中心に記録した地誌『越前国城跡考(えちぜんこくじょうせきこう)』が福井藩により作成されますが、これに初めて光秀の屋敷跡があるとの記述が見られます。

本書には、東大味に朝倉氏の家臣である中村但馬、明智日向守(光秀)、今井新兵衛の屋敷跡があるとし、その規模もそれぞれ44間×36間、22間四方、16間×22間と記されています。

これ以降に作成される地誌にも、名前の相違や規模の大小など多少の異同はありますが、屋敷の主の名とその規模が記されています。しかし、それ以上の情報はあまりなく、村を守ったということや、木像が大切に守られていることについては、全く触れられていません。

また、明智神社が建つ場所の字名は、城館跡でよくみられる「土居ノ内」となっており、この場所が城館跡であるのは確実ですが、光秀の屋敷かどうかは不明です。

明智神社
明智神社

光秀は主君を討った“天下の謀反人”であるため、光秀を顕彰することは主従関係を重んずる江戸時代においては、タブーとなっていました。そのため、東大味では屋敷跡に住む3軒の農家により密かに守られたと伝わっています。

地誌にみられないのは、当時の住民が藩や世間から咎められるのを恐れて、事実を伝えなかったことを示しているのかもしれません。

あとがき

光秀の越前滞在説については、関係する資料が乏しく、滞在した時期、場所、行動など、まだまだ謎に包まれているのが現状となっています。

しかし、これまで見てきたことを考えながら、伝承が残る場所に実際に行って、その雰囲気を、ぜひ感じてみてほしいと思います。


【参考文献】
  • 福井市立郷土歴史博物館特別展図録「明智光秀と越前-雌伏のとき-」2020年


福井市立郷土歴史博物館について


福井市立郷土歴史博物館
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常設展示室では、古代から近代にいたる福井の歴史を、「ふくいのあゆみ」「古代のふくい」「城下町と近代都市」「幕末維新の人物」の4つのテーマに基づき、分かりやすく紹介。

松平家資料展示室では、福井藩主松平家伝来の歴史資料や美術品などをテーマを変えて展示しています。
屋外展示として、江戸時代の福井城の門「舎人門(とねりもん)」と外堀・土橋・土塁が復元され、江戸時代の雰囲気を体感できます。

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