信長を支えた万能の「米」──丹羽長秀。その誠実さと狂気が混在する生涯
- 2026/01/05
長秀は、謙虚で温厚篤実、主君への信義も厚いという、戦国時代には珍しいほどの「誠実な人格者」でした。現代人の感覚からしても、これほど頼りがいがあり、相棒としてそばにいてほしい人物はなかなかいないかもしれません。
信長から唯一無二の信頼を寄せられ、後の天下人・秀吉すらも畏敬した丹羽長秀。その誠実さの裏に秘められた、組織人としての凄みと、時代に抗おうとした最期の意志を紐解きます。
信長との出会い:15歳で始まった「二人三脚」の歩み
丹羽長秀は天文4年(1535)、尾張の丹羽長政の次男として生を受けました。 年齢的には主君・信長より一歳年下、後の天下人・秀吉よりは一歳年上。まさに、戦国時代の中心を駆け抜けた主役たちと、ほぼ同世代の「戦友」として成長することになります。実は、長秀以前の丹羽氏については詳しい系譜がわかっておらず、彼の幼少期に関する史料も極めて少ないのが現状です。『寛政重修諸家譜』によれば、丹羽氏はもともと武蔵国児玉党の末裔であり、いつしか尾張へ移り住んだとされています。代々尾張国の守護・斯波氏に仕え、父・長政の代に尾張国丹羽郡児玉村(現在の名古屋市西区)に土着し、台頭してきた織田信秀(信長の父)の勢力下に入ったといいます。
父の死後、家督を継いだ長秀は、信長の小姓として仕え始めます。この時、長秀はまだ15歳の多感な時期でした。当時の信長といえば、「尾張のうつけ」と呼ばれ、奇行が目立つ若殿として周囲から冷ややかな目で見られていました。しかし、生真面目な長秀は、そんな主君の内に秘めた「底知れぬ器量」を誰よりも冷静に理解していたのでしょう。
かの有名な桶狭間の戦いでは、信長に次のように言わしめるほどの活躍をしたと言われています。
「汝とともに唯六騎にて、熱田まで馳付けたる故に、諸臣も必死の一戦を遂げ、ついに義元が首を得たり」
(意訳「お前とたった六騎で熱田まで駆け抜けたからこそ、他の家臣たちも必死になって戦い、義元の首を取ることができたのだ」)
「米五郎左」の真価:美濃攻略から見え始めた万能の才
長秀が確かな史料で歴史の表舞台にその名を轟かせるきっかけとなったのは、永禄年間から始まる「美濃攻め」でした。信長が美濃斉藤氏を破り、美濃国を平定するまでにおよそ7年。長秀はその間、常に最前線や重要な交渉の場に立ち続け、信長からの絶大な信頼を勝ち取っていきます。永禄6年(1563)には、信長の兄・信広の娘(信長の養女)を妻に迎え、織田一門と姻戚関係を結ぶまでになりますが、これは信長がいかに長秀を「身内」として重用していたかの証左といえるでしょう。
永禄10年(1567)の足利義昭を奉じての上洛作戦では、長秀は箕作城(みつくりじょう)を一気に攻略。この時、佐久間信盛や木下秀吉(のちの秀吉)らと先陣を争い、「鬼五郎左衛門」と称されるほどの勇猛な指揮を見せました。
しかし、長秀の真の凄みは、戦場の外で発揮される「行政能力」にあります。 上洛後の長秀は、京都での政務として、寺社からの徴収、占領地の検地の奉行人、さらには信長の趣味である茶器(名物道具)の買い付けに至るまで、驚くほど多岐にわたる任務を完璧にこなしているのです。
ちなみに信長から京・幾内の政務を任されたメンバーは長秀のほかに、柴田勝家・佐久間信盛・森可成・村井貞勝・明智光秀・羽柴秀吉などです。このそうそうたる顔ぶれから、長秀が信長重臣の一員であることが伺えます。
当時、流行していた小唄にこのような一節があります。
「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」
「木綿」のような秀吉は使い勝手が良く、「米」のような長秀は毎日の生活に欠かせないという意味です。柴田勝家の猛攻や佐久間信盛の撤退戦といった「特定の局面」で光る能力に対し、長秀は「常にそこにいなければ組織が回らない」という、絶対的な万能性を評価されていたのです。
安土城築城と「惟住」の姓:信長が示した破格の信頼
信長家臣団の中でも、長秀の扱いは特別でした。まず、その名前です。長秀の「長」は、信長が自らの諱(いみな)を一字与えたものです。主君が家臣に名前を分けることは稀にありますが、信長が「長」の字を与えた家臣は長秀ただ一人であり、二人の絆の深さが伺えます。
天正3年(1575)、信長は正親町天皇からの官位昇進を辞退する代わりに、重臣たちの任官を朝廷に願い出ました。この時、長秀は「惟住(これずみ)」という姓を賜ります。これは九州の由緒ある名門の姓であり、明智光秀が賜った「惟任(これとう)」と並ぶものでした。信長は将来に九州を平定したら、この二人に九州の統治を任せる構想を描いていたのかもしれません。
さらに長秀を語る上で欠かせないのが、安土城の築城工事です。天正4年(1576)、信長は長秀を総普請奉行(築城工事の総責任者)に指名しました。安土城は、それまでの城の概念を根底から覆す、世界でも類を見ない豪華絢爛な「天主」を持つ城です。
この工事は、現代でいえば国家規模の巨大プロジェクト。築城にあたっては様々な困難があったようです。当代一流の技術者や芸術家を招集し、巨額の資金と数万の労働力を動かす長秀の苦労は、想像を絶するものだったことでしょう。
有名な「蛇石(じゃいし)」のエピソードがあります。
付近の山々から石材となる大石を引き下ろして安土山へと運ぶ必要がありましたが、蛇石のあまりの巨大さに運ぶことができず、麓で立ち往生していた巨石を、長秀、秀吉、滝川一益の3人が1万人を動員して三日三晩かけて山上に引き上げたといいます。
『信長公記』には、「昼夜、山も谷も動かんばかり」の熱気であったと記されています。わずか3年でこの奇跡のような城を完成させた際、信長は長秀を心からねぎらい、国宝級の「珠光の茶碗」を手渡しました。信長にとって、自分の理想を形にしてくれる長秀は、まさに代えのきかない存在だったのです。
なお。余談ですが、天正9年(1581)に信長が自分の軍事力を世に示すために行った「京都馬揃え」では、柴田勝家ら他の重臣をさしおいて、長秀が一番に登場しています。
本能寺の変と山崎の合戦:なぜ長秀は「主役」を譲ったのか
天正10年(1582)6月2日、長秀の運命を、そして歴史を大きく変える惨劇が起こります。「本能寺の変」です。この時に織田重臣の中でもっとも明智光秀の近くにいたのは、四国征伐軍の長秀と織田信孝です。間違いなく光秀を討てる最も有利な位置にいました。歴史の皮肉か、『イエズス会日本年報』によると、信長の死が軍中に伝わると、信孝軍の大半の兵が逃げてしまったといいます。そして6月5日、兵力が激減した信孝と長秀は光秀の娘婿であった織田信澄を共謀者とみなして討ち取りますが、その後の初動は遅れることに…。
ここでの長秀の行動には、歴史ファンの間でも議論が分かれます。なぜ、彼は自ら主導権を握って「光秀討伐」の第一功を狙わなかったのか。背後にいた羽柴秀吉が「中国大返し」という奇跡的な機動力を見せたこともありますが、長秀の性格上、私欲よりも「組織の存続」を優先した結果だと思われます。
6月13日、信長の弔い合戦となった山崎の戦いにおいて、長秀は秀吉に付き従う形を選びましたが、これは自らが天下を狙う野心よりも、信長の敵を討つという「信義」を最優先した結果の、高潔な、しかしあまりに「誠実すぎる」判断でした。
清洲会議から秀吉時代へ:深まる孤独と織田家への思い
本能寺の変の後の6月27日、織田家の今後を決める「清洲会議」が開かれます。ここで長秀は、再び重大な選択を迫られました。古くからの盟友であり、三男信孝の肩を持つ柴田勝家か。それとも光秀討伐で勢いに乗り、三法師(織田信忠の幼い息子)を推す秀吉か…。
長秀は、池田恒興とともに秀吉を支持しました。これは「理」を重んじる長秀らしい判断でしたが、結果として織田家の実権が秀吉へと移る決定打となりました。
しかし、秀吉が実権を握るにつれ、長秀の心境には影が差し始めます。 秀吉は「信長の後継者」を装いながら、実際には織田家の影響力を急速に排除していきました。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで盟友・勝家を滅ぼし、さらに信長の三男・信孝を自害に追い込む秀吉の所業。信長から「長」の一字を授かり、織田家を自らの家系のように愛していた長秀にとって、秀吉の行動は「主家への裏切り」に等しく映ったはずです。長秀の心は次第に大坂(秀吉)から離れ、自領である越前に沈殿していくことになります。
秀吉が豪華な大坂城の完成を祝って、上洛するよう促されても、長秀は黙していました。「招待に応じれば、自分の存在が秀吉の天下を正当化するために利用される」 そう直感していたのかもしれません。ただ、それでも秀吉からのしつこい招きがあったこと、秀吉と長秀が不和なのではないかと言う噂を流されたことから、結局長秀は渋々上洛したようです。
壮絶な最期
天正13年(1585)4月16日。織田家の再興を夢見ながらも、長秀はその生涯を閉じます。享年51歳。公式には病死とされていますが、彼の最期については、耳を疑うような壮絶な伝説が残されています。『大日本野史』によれば、長秀は晩年、秀吉が主家を退けて天下をとったことに不満を抱くようになり、秀吉を倒して織田家再興を狙っていたといいます。しかし、長秀は体にがんのようなものを患って体を支えることも困難な状況でした。ある日、長秀は突然、刀で腹を裂き、中から肉腫を取り出しました。その肉腫は握りこぶしのように大きく、亀のような形であったと。刀は背中へ届くばかりの大傷でしたが、長秀はそのまま筆を執って遺書をしたためて、肉腫とともに秀吉へ送ったのです。
秀吉は長秀の豪胆さに驚き、長秀の死後も所領を保証する旨を、自筆で記して長秀に届けました。長秀はそれを見て思い残すことはないと思ったのか、息を引き取ったと言われています。
また、『国史実録』や『豊臣家譜』には、遺体を火葬した際に、肺の中から焦げることのない虫の形をした奇妙な塊が見つかったという話もあり、彼の死はどこまでもミステリアスで、悲劇的な色彩を帯びています。
おわりに
信長が存命であった頃、丹羽長秀は間違いなく「時代の主役」の一人でした。安土城を築き、軍政の両面で八面六臂の活躍を見せた彼の姿は、まさに理想のリーダー像そのものです。しかし、信長の死後は信義を貫くことができず、不本意な思いをしていたようです。様々な能力に恵まれつつも、温厚篤実な人柄ゆえに、狡猾に立ち回る秀吉に足元を見られてしまったのが不運だったと言わざるを得ません。
最後まで「信長の家臣」であることに殉じようとした長秀は、才能に溢れながらも、野心によって己を汚すことを拒んだ、稀有な「プロフェッショナル」でした。その生き様は、効率や損得ばかりが重視される現代社会においても、私たちが忘れかけている「大切な何か」を問いかけているような気がしてなりません。
【参考文献】
- 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館 2007年)
- 井沢元彦『英傑の日本史 激闘織田軍団編』(角川学芸出版 2009年)
- 岡本良一/編『織田信長事典 コンパクト版』(新人物往来社 2007年)
- 桑田忠親『日本武将列伝3』(秋田書店 1972年)
- 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中央公論新社 1998年)
- 南条範夫『おのれ筑前、我敗れたり』(文藝春秋 2002年)
- 千田嘉博『信長の城』(岩波書店 2013年)
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