「丹羽長秀」マルチな才能を持ち、謙虚で温厚。信長死後は百万石超えを果たす!
- 2019/06/18
丹羽長秀(にわながひで)は信長の家臣の中でも、ひときわマルチな才能が目立つ人物の一人です。しかも、謙虚で温厚篤実、主君への信義も厚い、とくれば、現代人の感覚をもってしても相棒としてそばにいてほしいタイプの人物ではないでしょうか。
今回はそんな丹羽長秀の生涯をご紹介いたします。
15歳で信長に仕える
長秀は天文4年(1535年)に丹羽長政の次男として誕生。年齢的には信長より一歳年下、秀吉よりは一歳年上と、のちに仕える人物とは近い年周りになります。
実のところ、長秀以前の丹羽氏の系譜や事績もはっきりしておらず、そもそも長秀の幼年期に関する史料もほとんどありません。
『寛政重修諸家譜』によると、丹羽氏は武蔵国児玉党の末裔とされており、いつしか尾張国に移って本姓を藤原氏に復したといいます。 そして、代々尾張国の守護・斯波氏に仕え、父・長政のときに尾張国丹羽郡児玉村(愛知県名古屋市西区)に土着して丹羽氏を称したようです。そして織田氏が織田信秀の代になって急速に勢力を拡大したことで、丹羽氏は織田氏の傘下に入ったといいます。
父長政の死後、家督を継いだ長秀は信長の小姓として仕えたようです。もともと勤勉でまじめなタイプの長秀の働きがやがて信長の目にとまります。
かの有名な桶狭間の戦いでは、信長に「汝とともに唯六騎にて、熱田まで馳付けたる故に、諸臣も必死の一戦を遂げ、ついに義元が首を得たり」と言わしめるほどの活躍をしたとも言われています。(『丹羽系図并年譜』)
出世は美濃攻めがきっかけ
ただし、長秀が確かな史料で歴史の表舞台に登場するのは、信長が美濃攻めにとりかかってからです。
信長は美濃攻略におよそ7年を費やしていますが、長秀その間に功をたて続け、信長から絶大な信頼を得ていきます。
それを裏付けるかのように永禄6年(1563年)に信長の養女となった織田信広の娘を娶り、信長と姻戚関係となっています。(『丹羽家譜』)
永禄10年(1567年)の足利義昭を奉じた上洛作戦では箕作城を一気に攻略。このとき長秀は佐久間信盛、浅井政澄、木下秀吉とともに先陣争いに加わり、「鬼五郎左衛門」(丹羽歴代年譜)と称されるような勇猛な指揮を執っています。
上洛後、長秀は京都での政務に携わっています。例えば、佐久間信盛とともに大和の法隆寺に賦課した制札銭の徴収に関与したり、占有地の近江で行った指出検知の奉行人を村井貞勝と務めたり。さらに、松井友閑とともに名物道具の買い取りの使者を務めるなど、活躍の場は多岐にわたっています。
特筆すべきは、信長から京・幾内の政務を任されたメンバーでしょう。長秀のほか、柴田勝家、佐久間信盛、森可成、村井貞勝、明智光秀、羽柴秀吉などです。この顔ぶれから、長秀はすでに重臣の仲間入りをしていたことが伺えます。
重臣の中でも特別扱いだった?
マルチな才能をいかんなく発揮していた長秀の扱いは、並み居る信長の有能家臣軍団の中でも特別扱いだったように思えます。
信長からの偏諱
まずは長秀の名前。長秀の「長」は「信長」から一字をもらったものです。これは主君からよほど信頼されているものにしか行われません。家臣の中で長秀にしかその文字を与えていないのです。
米五郎左
当時、流行していた小唄に「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」というものがありました。ここで歌われた五郎左、つまり長秀は少しの間もなくてはならない米のような人物と評されています。
信長は家臣の特性を見抜き、その才能に応じて家臣たちを用いた武将でありましたが、重要な戦や事業では常に長秀が選ばれています。着実に仕事をこなすだけでなく、人物的にも好人物で、家臣をまとめるうえでも欠かすことができなかったのでしょう。
「惟住」の姓
天正3年(1573年)、信長は、正親町天皇からの官位昇叙を辞退する代わりに重臣の任官を奏請しました。このとき長秀は明智光秀の「惟任」とならんで「惟住」の姓を賜っています。この惟任と惟住は九州の豪族の称号であることから、信長は将来九州を平定した後、二人に九州を支配させようと思っていたのでしょう。
さらに信長は朝廷に奏して長秀を越前の守に任じようとしましたが、長秀はこれを辞退しています。その謙虚な性格が伺えます。
安土城築城の総普請奉行を任される
様々な事業の中で最も長秀が心を砕いたのは安土城の築城でしょう。
天正4年(1576年)、信長は長秀を総普請奉行(築城工事の総責任者)として、琵琶湖畔の安土山に築城を開始。安土城建設は織田政権が総力をあげて、当代一流の技術者と芸術家を総動員して行った大工事です。それまでに全く類例のない城であった上に、城を築く安土城は天然の要害地。築城にあたっては様々な困難もあったようです。
城の石垣を作るためには、付近の山々から石材となる大石を引き下ろして安土山へと運ぶ必要がありましたが、中でも蛇石というのは特に大きく、麓まで引いてきたものの山に引き上げられませんでした。そこで、長秀、秀吉、滝川一益の三者で助勢をして1万人の人を動員し、昼夜問わず3日がかりでようやく山上に引き上げたという話も残っています。
まさに、「昼夜、山も谷も動かんばかり」(信長公記)の大工事でありましたが、なんと「三年を終わらずして、その功大成」(安土山記)。築城を急かす信長に応えるため、長秀も奔走させられたことと思います。
天正7年(1579年)5月7日、城の完成をみた信長は普請を監督した長秀と信澄に長年の苦労をねぎらって休暇を与えています。5月11日には岐阜城から安土城へ移り住みました。長秀はこのとき信長秘蔵の珠光の茶碗を与えられています。
京都馬揃えでは1番
天正9年(1581年)、信長が自分の軍事力を世に示すために行った京都馬揃えでは、柴田勝家ら他の重臣をさしおいて、長秀が一番に登場しています。
本能寺の変ではもっとも明智討伐のチャンスだったが…
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が勃発した時に織田重臣の中でもっとも京都の近くにいたのは織田信孝と長秀でした。長秀は四国平定のために出陣する信孝の補佐と、上洛中の徳川家康らを接待するために大阪に赴いていたのです。
明智謀反の知らせが届くや、長秀は急いで上洛しようとしましたが、森口で信長父子の自刀を知って一旦大阪へ引き返しました。すると、そこへ信孝がわずか80騎で長秀を頼ってきたので、長秀は信孝を守って一旦大阪城へ。そして信孝と相談した結果、光秀の娘婿であった織田信澄が光秀と通じている疑惑があったため、これを攻撃して自害させます。
しかし、長秀と信孝はこれ以上動きませんでした。明智光秀を討ち、織田家中での名声を高めるのに絶好の機会だったにもかかわらずに。『イエズス会日本年報』によると、信長の死が軍中に伝わると、信孝軍の大半の兵が逃げてしまったといいます。
そうこうしているうちに秀吉軍が尼崎へ進出してきたので、光秀を討つための軍議をともに行い、6月13日には秀吉と合流。山崎の戦いで光秀を破り主君のかたきをとったのです。
清洲会議
同年6月27日に柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興で行われた清洲会議。これは信長の後継者を誰にするかを決定する重要な会議でした。
ここで、信長とともに殺された織田信忠の子三法師を推す秀吉と、三男信孝の肩を持つ柴田勝家とが激しく対立。光秀を直接討った功労者であった秀吉を前にして、長秀は池田恒興とともに秀吉の意見を支持。結局、秀吉の案が採用されることになりました。
その後、織田家の旧臣たちは勝家・秀吉の二派にわかれて互いに反目。長秀は清洲会議の流れのままに秀吉派となり、翌年の賤ケ岳の戦いで秀吉軍に従軍しています。
晩年は秀吉に従うも、心中穏やかでなかった?
長秀はこのころから、心中では秀吉に対して反感を抱いていたのではないかと思われます。主君である信長の敵をとった秀吉を立てねばという気持ちがある一方で、信長の遺児たちを冷遇する秀吉に不満を持っていたようです。
信長の死後一年もたたないうちに、無残にも信孝の母や娘を処刑し、信孝を切腹に追い込んだ秀吉の所業は、信義に篤い長秀にとって我慢がならなかったのではないでしょうか。
やがて、長秀は越前に引っ込んで表舞台に出てこなくなりました。秀吉が大阪城の完成を祝って上洛するようにと再三長秀を招いたにも関わらず、長秀は黙していました。
招きに応ずれば、秀吉は自分の天下を世に誇示するために、織田旧臣の長秀の存在を利用することが分かっていたからでしょうか。しかし、それでも秀吉からのしつこい招きがあったこと、秀吉と長秀が不和なのではないかと言う噂を流されたことから、長秀は渋々上洛したようです。
壮絶な最期
長秀の最期の様子は諸説ありますが、一説に天正13年(1585年)4月16日に突如自害して果てたといいます。
『大日本野史』によれば、長秀は晩年、秀吉が主家を退けて天下をとったことに不満を抱くようになり、秀吉を倒して織田家再興を狙っていたといいます。しかし、長秀は体にがんのようなものを患って体を支えることも困難な状況でした。
そんな状況の中、長秀はある日突然刀で腹を裂き、中から肉腫を取り出しました。その肉腫は握りこぶしのように大きく、亀のような形であったと。刀は背中へ届くばかりの大傷でしたが、長秀はそのまま筆を執って遺書をしたため、肉腫とともに秀吉へ送ったのです。
秀吉は長秀の豪胆さに驚き、長秀の死後も所領を保証する旨を、自筆で記して長秀に届けました。長秀はそれを見て思い残すことはないと思ったのか、息を引き取ったと言われています。
また、『国史実録』や『豊臣家譜』によれば、長秀が自害した後に遺体を火葬すると、肺の中に焦げもせず焼けもしない、虫の形をした塊が残ったと言われています。
いずれにしても壮絶な最期で、長秀の無念さや秀吉への強い恨みが感じられますね。
おわりに
信長在世のころは、常に信長の傍らにあって持てる力を惜しみなく発揮し、その天下取りを助けた長秀。しかし、信長の死後は信義を貫くことができず、不本意な思いをしていたようです。様々な能力に恵まれつつも、温厚篤実な人柄ゆえに、秀吉に足元を見られてしまったのが不運だったと言わざるを得ません。
【主な参考文献】
- 桑田忠親『日本武将列伝3』秋田書店 1972年
- 谷口克広『信長の親衛隊』中公新書 1998年
- 南条範夫『おのれ筑前、我敗れたり』文春文庫 2002年
- 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
- 岡本良一、奥野高廣、松田毅一、小和田哲夫編『織田信長辞典コンパクト版』三晃印刷 2007年
- 井沢元彦『英傑の日本史 激闘織田軍団編』角川学芸出版 2009年
- 千田嘉博『信長の城』岩波新書 2013年
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