謀反人の明智光秀にも子孫や末裔がたくさん!血脈はどう保たれたのか?
- 2019/12/12
「日本史上最大のミステリー」と言われ、知らない人はいない事件「本能寺の変」。信長の家臣・明智光秀が主君を討った事件です。これほど有名にも関わらず、いまだその動機は謎のまま(多くの説が飛び交っている)であることも、人の興味を惹きつける理由かもしれません。
ところで、信長を討った謀反人の明智光秀の子孫が現代まで続いていることをご存知でしょうか?歴史の中では山崎の戦いの後に皆自害したことになっているのですが、実はこっそり坂本城から逃れ、名を変えて生き延びた子孫がいた、という話がちらほらあるのです。
落ち武者狩りに遭って亡くなったという光秀自身に生存説があるくらいなので、子孫の生存説があってもおかしくはありません。しかし、光秀の子孫たちはどのようにして血をつないでいったのでしょうか。
ところで、信長を討った謀反人の明智光秀の子孫が現代まで続いていることをご存知でしょうか?歴史の中では山崎の戦いの後に皆自害したことになっているのですが、実はこっそり坂本城から逃れ、名を変えて生き延びた子孫がいた、という話がちらほらあるのです。
落ち武者狩りに遭って亡くなったという光秀自身に生存説があるくらいなので、子孫の生存説があってもおかしくはありません。しかし、光秀の子孫たちはどのようにして血をつないでいったのでしょうか。
謀反人は一族郎党皆殺しが基本
明智光秀の子孫について語る前に、まず当時の謀反人一族がどのような扱いを受けたか、荒木村重と豊臣秀次の2つの例を紹介しましょう。荒木村重の例
荒木村重は信長が重用しており、村重の息子には光秀の長女が嫁いでいるなど、光秀にとっても関係の深い人物でした。ところが村重は突如謀反。天正6年(1578)からの「有岡城の戦い」で籠城戦を行いますが、戦力差は圧倒的で無謀な戦いでした。結局、村重・村次親子は城を出て逃走。村重が生き残って秀吉の御伽衆の一員になったことは有名ですが、村重親子に置いて行かれた一族と家臣一族の末路は悲惨なものでした。
荒木一族と家臣一族の処刑は大河ドラマ『軍師官兵衛』が記憶に新しいですが、村重の美貌の正室「だし」を筆頭に、一族と家臣、そしてその妻子、その他人質を含めた670名もの関係者が処刑されたのです。
とはいえ、やはり生き残りの子孫というのは存在するもので、江戸時代の絵師・岩佐又兵衛は村重の子孫だといわれていますし、細川忠興が引き取って育てた子もいると伝えられています。
豊臣秀次の例
続いては身内から出た謀反人を容赦なく、一族39人を惨殺したという例です。天下人となった豊臣秀吉の後継者候補として有力だった甥の秀次。順調に秀吉の後を継ぐべく働いて2代目関白となりますが、秀吉に秀頼が生まれたあたりからその存在は疎まれるように…。果てには謀反を企てたとして切腹を命じられてしまいます。それに連座したのが秀次の妻子ら39名でした。秀次は切腹。その妻子は、年端もゆかぬ幼子まで容赦なく京都三条河原で公開処刑された、と伝えられています。
こちらは大河ドラマ『真田丸』で描かれましたよね。秀次の子で唯一処刑を免れたとされるのが隆清院で、真田信繁の側室になったとされる女性です。なぜ処刑から逃れることができたのかはわかっていません。
史料でみた光秀の妻子の末路
このように、一部乳母に連れられて生き残るという例はちらほらあるものの、多くの謀反人一族の末路は処刑による死でした。光秀も信長を討った後、2週間もたたずに山崎の戦いで敗死。当然その一族を待っているのも死のみでした。のちに秀吉の御伽衆・大村由己によって書かれた『惟任退治記』には、光秀の妻子の最期はこのように記されています。
「明智彌平次聞届此由。惟任一類。其身眷屬。悉差殺。殿守懸火。成自害。敵味方共所相感也」
坂本城で光秀の死の報を聞いた娘婿の秀満は、光秀の妻子および自身の妻子を刺し殺し、その後城に火をかけて自害したとされています。
一方、信長と親交があった宣教師のルイス・フロイスも著書『日本史』の中でこの件に触れていました。内容を要約すると、
秀吉の軍が坂本城に到着したころには城内の多数の者が逃れた後で、残っていた親族のうち婦女子は秀満によって殺害された。秀満は火を放って切腹して自害。
そのとき明智の二子(男子)も亡くなっていて、二名ともヨーロッパの王子を思わせるような上品な子どもたち。長男は十三歳であった。
光秀の実子は女子と男子2名が坂本城で亡くなった、ということです。
あわせて読みたい
光秀の実子は生き延びていたかも!?
自身も光秀の子孫を名乗る明智憲三郎氏は、著書『本能寺の変 431年目の真実』の中で上記のフロイスの記録を挙げ、光秀の実子が落ちのびた可能性を示しています。というのも、秀吉は山崎の戦い後に明智の残党狩りを徹底的に行っていたものの、「光秀の子を捕らえ処刑した」という記録はどこにもないのです。
フロイスの記述によれば、秀吉方の軍が到着したときには坂本城内から多数の人間が逃れた後だったといいます。つまり、光秀の子が逃げる機会は十分あったということです。
おまけに、フロイスが本能寺の変の後に書いた『1582年日本年報追加』によれば、死んだとされる二人の子(男子のことと思われる)は逃げたという噂もあったようです。
明智憲三郎氏は同書の中で、
「光秀の謀反はそもそも一族を滅亡から救う目的で起こしたのだ」
として、
「結局、坂本城に帰り着けたのは秀満だけだった。坂本城に戻った秀満がなすべきことは、光秀の子供たちを無事に落ち延びさせることだったのだ」
と当時の秀満に与えられた役割について結論付けています。
あわせて読みたい
光秀の子孫・末裔とされる人々
さて、ここでは光秀の子孫として伝わっている人々(自称含む)を一部紹介しましょう。当然ですが、ここで紹介できるのは政治・文化などで世間に名が知れている著名人のみ。一般人の方の中にも光秀の子孫と伝わる人々はもっと大勢存在するでしょう。
- 明智憲三郎氏(光秀の子・於寉丸の子孫)【作家・歴史研究家】
- 細川隆一郎氏(光秀の三女・ガラシャの子孫)【政治評論家】
- 細川隆三(細川隆一郎氏の長男)【テレビ朝日報道局デスク】
- 細川珠生(細川隆一郎氏の娘)【政治ジャーナリスト】
- クリス・ペプラー氏(光秀の実子か、ともいわれる土岐頼勝の子孫)【タレント・ナレーター】
- 坂本龍馬(光秀の娘婿・秀満の子孫か)
- 内田青虹氏(詳細は不明、おそらくガラシャの子孫)【日本画家】
- 明智ハナエリカ氏(末裔といわれている。詳細は不明)【ミュージシャン】
於寉丸
まずは明智憲三郎氏の祖先・於寉丸(おづるまる)について。光秀には複数の子どもがいたらしいことはわかっているのですが、実は系図によって人数も構成もバラバラ。存在が確認できているのは嫡男とされている明智光慶のみ(光秀とともに連歌会に参加した記録がある)なのです。
ちなみに光慶は本能寺の変の際には丹波亀山城におり、父光秀が討たれた後、高山右近・中川清秀の軍勢に攻め込まれて自害したとか。
さて、『鈴木叢書』十三所収の「明智系図」を見てみると、7名の女子のほか男子は6名。上から僧玄琳、安古丸、僧不立、十内、自然、内治麻呂がいます。
自然(じねん)は大河ドラマ『おんな城主直虎』では井伊谷に落ち延びた設定で描かれていましたね。しかし、ここに於寉丸の名はありません。
では『明智軍記』はどうか。こちらは男子については3名のみ。嫡男の光慶、十次郎、乙寿丸です。こちらにも於寉丸の名はありません。
もしかすると上記いずれかの男子が名を変えたのかもしれません。あるいは煕子一筋とされる光秀にも側室がおり、世間には知られていない子が存在した可能性も考えられます。
いずれにしても光秀の子は系図によってバラバラで不明な部分が多く、実際は何人の子がいたのかもよくわかっていません。於寉丸の存在を疑問視する声もありますが、これだけ系図がはっきりしないのでこういう実子がいたとしても不思議ではありません。
なお、明智憲三郎氏の家系は250年前までさかのぼれるものの、光秀までの残り150年は調査中とのことです。
ガラシャの子孫
次に明智珠(細川ガラシャ)の流れをみてみましょう。ガラシャは光秀の娘で細川忠興の正室としても有名ですね。光秀の死後は逆臣の娘として苦悩の日々を送ったことでしょう。のちにキリシタンとなり、最期は関ケ原合戦の際に石田三成の人質になることを拒否して自害しました。
忠興とガラシャ夫婦の直系の子孫は著名人に複数存在しています。細川家は江戸時代以降も代々肥後熊本藩主をつとめており、こちらは謀反人の家系ではないので系図もしっかり残っています。
細川家に嫁いだガラシャの子孫なので、明智の直系とは言えませんが、光秀の血を受け継いでいることは確かです。
ガラシャと忠興の子には、男子は忠隆、興秋、忠利、女子は於長(おちょう/前野景定の正室)、多羅(たら/稲葉一通室)。正室であるガラシャが産んだのは3男2女。
実は3人の男子のうち忠興の後継となったのは三男の忠利でした。というのも長男の忠興はガラシャを亡くして悲しみ、自分は辛いのに妻がいる長男を妬んで離婚するよう命じるも、忠隆が従わなかったために廃嫡。次男は徳川の人質になる際に出奔して出家したからです。
そのため直系の子孫というと忠利の流れになるのでしょうが、ここでは廃嫡された忠隆の流れにある人物を紹介します。政治評論家の故・細川隆一郎氏とその子らは忠隆の子孫であるといわれています。
また、元内閣総理大臣・細川護熙は遠い親戚にあたるようです(細川護熙氏は忠興直系の子孫ですが、養子を経ているためガラシャの血は受け継いでいない)。
光秀の実子が土岐氏の養子に
クリス・ペプラー氏の祖先に関しては、2016年にテレビ番組で調査が行われて土岐頼勝であると判明しています。この調査にあたった明智憲三郎氏は頼勝が光秀の実子である可能性を示し、「100%ではないがクリス・ペプラー氏は光秀の末裔と言っていい」と結論付けています。頼勝が光秀の実子でなかったとしても、光秀も土岐氏の支流・明智氏の出身。親族の流れにあることは確かなようです。
一族が土佐に逃れた可能性?
坂本龍馬が光秀の末裔という説があります。光秀の娘婿・明智秀満が土佐に逃れ、その子孫が坂本家であるという話。これも確かな史料が坂本家に残っているわけではないため断言することはできず、この説が浮かび上がったのはそもそも明治時代の伝記小説が発端。末裔説は疑問視されています。が、明智憲三郎氏は末裔である可能性は十分考えられる、と公式ブログで述べています。
もっとくわしく
全国各地で伝わる「光秀子孫」の言い伝え
そのほか、各地に光秀の子孫が逃れ隠れ住んだという言い伝えが残っているようです。上総国(現在の千葉県)には光秀の側室とその子が逃れてきたという伝承があり、その地には側室と子のものと伝わっている墓も存在するとか。
また、四国(讃岐)には明智秀満の子6人が逃れて「土岐氏」を名乗った伝承もあるそうで、明智憲三郎氏が坂本龍馬の末裔説について「可能性はある」というのも、四国に秀満の子らが渡った、という伝承があるからでしょう。その他各地に同様の言い伝えがあり、光秀の子孫は口伝で受け継いでいるのだとか。
どのようにして血脈を保ったのか
ここで紹介している子孫については史料が残っておらず、はっきりしない例がほとんどです。光秀の子孫だ、血を受け継いでいると言えるのは細川家の子孫として挙げた人々だけかもしれません。光秀の子孫だという根拠に信憑性はあるのか?
その他の人々が光秀の子孫だという根拠はあるのかというと、ほとんどないでしょう。近江の土岐氏に匿われたという子孫の家系は光秀が書いたとされる「家中法度」が伝わるなど、光秀とのつながりを示す文書が残っています。しかし、たいていの場合は口頭でのみ「光秀の子孫である」と受け継がれたので、光秀につながる系図などは基本的にないのです。
出自を隠して生き延びた
そもそも、謀反人の子孫がどうして生き延びることができたのかを考える必要があります。彼らは秀吉方の残党狩りの目をかいくぐり、息を殺すようにして名を変え、親しい人や縁者を頼って生き延びたと考えられます。光秀との関係を示す「明智」姓はまず名乗ることができず、養子に入ったり名字を変えたり、出自を隠すことを余儀なくされました。明智憲三郎氏の一族も同じで、曾祖父の代までは「明田(あけた)」姓を名乗っており、曾祖父が政府に復姓を申請してやっと明智姓に戻ることができたのだとか。多くの子孫の家系は、もしかするといまだに明智を名乗れないまま別の姓で生きているのかもしれません。
このように名前を隠して血をつなぎ、光秀の子孫であることは直系の男子だけが受け継ぐトップシークレットだったいう家もあるようで、日本画家の内田青虹氏の家がまさにそのようにして伝えてきたのだとか。
光秀の子孫は、そうでもしなければ生き延びることができなかった。そうすることでやっと現代まで血をつなぐことができたのです。
【参考文献】
- 『歴史読本』編集部編『ここまでわかった!明智光秀の謎』(株式会社KADOKAWA、2014年)
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社、2013年)
- 高澤 等『戦国武将 敗者の子孫たち』(洋泉社、2012年)
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)※文中の引用もこれに拠る。
- 明智憲三郎氏の公式ブログ 本能寺の変「明智憲三郎的世界 天下布文!」
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄