【麒麟がくる】第13回「帰蝶のはかりごと」レビューと解説

美濃守護・土岐頼芸は鷹の爪に毒を仕掛け、道三(利政)の暗殺を試みたものの、失敗に終わりました。自分に殺意が向けられたことに激怒した道三は、国人領主たちの前で大演説をかまし、いよいよ頼芸との直接対決か、というところで前回が終わりました。

光秀は戦になったら道三と高政のどちらにつくかで随分悩んだようですが、道三はすでに次の手を打っていたのです。

土岐頼芸と鷹

道三を殺せはしなかったものの、脅しは成功した、と思ったのでしょうか。頼芸は機嫌よく鷹狩の準備をしていましたが、手塩に掛けて育てた鷹がすべて殺されていることを知ると腰を抜かして嘆き、道三を恐れて鷺山城を出て行きました。

それにしても、頼芸は殺された何羽もの鷹を見て、「やばせ……いぶき……」と名前を呼んで悲しんでいました。

鷹狩や鷹の絵は暇を持て余した単なる道楽かと思いきや、本当に鷹を愛していたのですね。それなら鷹を使って毒殺しようなんて考えなければよかったのに……。

「紀行」でも紹介されていましたが、頼芸は鷹の絵を多く残していて、彼の絵は「土岐の鷹」と呼ばれました。

美濃守護土岐氏としては頼芸の代で滅亡してしまいますが、彼の子孫は江戸時代に入ると旗本として徳川幕府に仕え、頼芸と同じく鷹の絵を得意とする者もいたようです。

土岐氏は代々文化面で才能を発揮しており、鷹の絵も父祖の代から受け継がれたものだったとか。

頼芸が頼った六角氏

逃れた先は近江国(現在の滋賀県)の六角氏。頼芸の正室は六角定頼の娘ですから、その縁で頼って行ったのでしょう。

観音寺城跡にある六角定頼の騎馬像
室町時代、代々近江国の守護を務めてきた六角氏。定頼は六角氏の最盛期を創出した。

六角氏は将軍家の大きな後ろ盾でしたし、さらに細川氏に土岐氏にと、このころいろんな人が頼りにしていたことがよくわかります。

定頼は頼芸追放と同年の天文21年(1552)に亡くなっていますが、彼の時代は六角氏の全盛期でした。


木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉)登場。なすべきことをなすべき時に

一方、尾張の織田信秀に別れを告げた東庵と駒は、駿府に向かっていました。伊呂波太夫に頼まれた用事です。その間、今川軍の行列に足止めを食らい、行商人の男に出会います。木下藤吉郎、のちの羽柴秀吉です。

書物を読めるところだけたどたどしく読んでいた藤吉郎は、駒に読んでくれと頼みます。

「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑の(なほざり)の心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」
(』引用は『新編日本古典文学全集』より)

吉田兼好の『徒然草』第九二段の一部で、藤吉郎が解釈したとおり、「初心者は弓を習うのに二本の矢をもってはならない。二本目をあてにして最初の矢がなおざりになってしまう。一本射るごとに、この一矢で決着をつけるのだと思え」という、ある弓の師匠の言葉です。

これは弓矢の練習に限った話ではなく、万事に通じる訓戒です。誰もが「また明日があるから」と思い、無意識に怠け心を持っている。やるべきことをすぐ行うことがどれだけ難しいか、とは吉田兼好の感想です。

秀吉の初登場シーンにこの訓戒を持ってくるとは、今後の秀吉の運命を示唆しているんでしょうか。秀吉は信長の死後、中国大返しで京に戻り、山崎の戦いで光秀を討って信長亡き後の主導権を握ります。

ここだ、というチャンスを必ずモノにする人ですよね。次があるから、と悠長に構えないから出世できたのかもしれません。

しかし、『徒然草』がヒットするのは江戸時代に入ってからです。まだ写本が多く流通していないこの時代に手に入れて読んでいたとは、藤吉郎に本を譲った坊さんは目の付け所がよかったんですね。

秀吉が最初に仕えるのは松下之綱

さて、秀吉は信長と同じく尾張出身ですが、最初から信長に仕えたわけではありませんでした。

今回、藤吉郎は織田と今川の力関係をよく見ていて、今の織田信長ではどうもだめだ、と尾張に見切りをつけて今川に仕えようと考えます。

秀吉が初めて仕えたのは、今川氏の家臣・松下之綱(ゆきつな)です。遠江の之綱に仕えた時期は短く、数年後には信長に仕えるようになります。

藤吉郎が最初に同じ尾張の織田ではなく今川に仕えようと考えたあたり、当時どれだけ今川が絶大な力を持っていたのかがよくわかります。これから8年ののちに信長に討たれるとは、誰も想像しなかったでしょう。

平手政秀の切腹

天文22年(1553)、織田信秀・信長の二代にわたって仕えた平手政秀が切腹して亡くなりました。

今まで平手の切腹の理由としてよく知られていたのは、「信長を諫めるため」というものです。

『信長公記』では、平手の長男・五郎右衛門の馬を信長が所望したのを、五郎右衛門が拒否したことがきっかけで信長と平手は不和となり、その後信長の奇行がどうにもおさまらないのを憂いて「もう生きていても仕方ない」と言って自刃した、と語られています。

そのほかの説では、信長と弟・信勝(信行)の家督相続争いに絡んで自刃した、というものもあります。

「麒麟がくる」が採用したのは、守護代・織田信友(彦五郎)との交渉のために自刃したという説でした。ここは最近の説が反映されたようです。

清州の信友は信秀の後継として信勝を推しており、信長とは対立関係にありました。交渉のために切腹したか、交渉失敗の責任をとって切腹したか、この説にも理由は複数考えられると思いますが、平手の切腹を従来よく描かれたような美談にはせず「平手は早まったな」だけで終わらせる「麒麟がくる」、新しいですね。


四面楚歌の信長、道三との会見

信秀が死に、家老の平手も死に、尾張は内乱状態で今川にも狙われている。信長は四面楚歌の状態です。

そんなタイミングで道三から「会見したい」という申し出があったわけで、これは道三にも見限られる可能性が高いことはすぐわかります。

「麒麟がくる」では、帰蝶主導で会見の準備が進められました。伊呂波太夫を介して大勢の兵を大金で雇い、『信長公記』にあるとおりの派手な出で立ちで褌チラチラさせながら行列を率いる信長。

この第一印象で、とりあえず道三は度肝を抜かれたことでしょう。このあと会見に正装で現れるのも帰蝶の案ということになるのでしょうか。マムシの娘らしさが光るキャラクターです。今作では帰蝶大活躍ですね。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 校注・訳:神田秀夫・永積安明・安良岡康作『新編日本古典文学全集(44)方丈記 徒然草 正方眼蔵随聞記 歎異抄1』(小学館、1995年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。