「濃姫(帰蝶)」織田信長の正室・濃姫の生涯は謎だらけだった!?

大河ドラマ「麒麟がくる」の放送開始が間近に迫った2019年11月、濃姫役の沢尻エリカが逮捕されるという衝撃ニュースが飛び込んできた。合成麻薬MDMAの所持容疑による逮捕だという。代役は程なく川口春奈に決まったが、放送開始が2週先送りになるなどその影響はただならぬものがあった。

そんな中、沢尻エリカとともにネット検索数を増やした意外な人物がいる。信長正室として知られる「濃姫(のうひめ )」 である。

濃姫は戦国武将知名度ナンバーワンの信長の正室でありながらその生涯は謎に包まれている。史料での出現率も極めて低く、信長の側室で嫡男信忠を産んだ生駒吉乃のほうがまだ出現率が高いのではないか。(吉乃という名は後世につけられた名で、史料には記述がないが)

しかし、濃姫は痩せても枯れても美濃の梟雄・斎藤道三の姫であるから、史料を読み解く中でその人物像がうっすらと見えてくるだろうと思いつつ筆を進めたい。

「帰蝶」か「濃姫」か?本名はわからず…

信長の正室と言えば「濃姫」という印象をお持ちの方はかなり多いと思う。

実は「濃姫」は単なる通称であって名ではないという。これほど、「濃姫」という名の知名度が上がってしまったのは『武将感状記』などの史料にその名が登場し、ドラマ等でも濃姫の名で登場するためであろう。

しかし「濃姫」という名は、信頼するに足る一次史料には一切出て来ない。また、一次史料以外の史料においてもその呼び名は複数あり、わりと有名なものとしては「帰蝶(きちょう)」が挙げられるし、『武功夜話』では「胡蝶(こちょう)」という名で登場する。美濃の斎藤道三の娘が信長に嫁いだのは各種史料から確認できるが、名前がはっきりしないのである。

斎藤道三のイラスト
濃姫の父は美濃のマムシの異名をもつ「斎藤道三」

『美濃旧記』には、

「小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上總介信長に嫁す。歸蝶といふ。又鷺山殿といふ。」

とある。

ただ、一次史料である『信長公記』には信長に正室が嫁したという記述があるが、名前が記されていず、肝心の『美濃旧記』にしても他の一次と記述が一致しない点があることから、その記述を鵜呑みにするのは危険であろう。

明智 光秀とは従兄妹同士?

濃姫の父は斎藤道三だと先に書いたが、母はと言うと道三の正室「小見の方」というのが定説となっている。小見の方は明智光秀の父光綱の妹であるという説が有力であり、この説を採るならば、光秀と濃姫は従兄妹ということになる。

『美濃国諸旧記』『明智軍記』などの諸史料に基づいて作成。

しかし、光秀の出自もはっきりしない部分が多く、従兄妹だという確証はないのであるが、同族である可能性は高いと思われる。これは後述するが、光秀と同族であるということが本能寺の変に影響を与えた可能性があると私は睨んでいる。

そもそも、戦国期の史料に女性の言動が記されることは少なかったのであるが、濃姫に至っては極端に少なく、謎だらけなのだ。それは本能寺の変の実行犯が同族の光秀であるという事情が影響している可能性もあるだろう。


没年も不明。謎後半生。

濃姫の生年は天文4(1535)年とされているものの、没年についてはいくつも説があり、未だ決着を見ていない。それらの説は大別すると2つある。

ひとつは「嫁いでから本能寺の変までの間に亡くなった」というもので、もうひとつは「変の後も生存していた」というものである。

憶測にすぎない?

前者の説には以下のようなものがある。

  • 信長と離縁し、早くに亡くなったとするもの。
  • 病気など何らかの理由によるもの。
  • 本能寺の変の際に、戦って討死したとするもの。

上記諸説は、『信長公記』など良質の史料に濃姫が結婚したあとの記録が一切ない点や、後世に描かれた軍記物などを頼って仮説や推論を立てているため、信憑性は低いと思われる。

本能寺の変で長刀を振るう濃姫の画
『本能寺焼討之図』本能寺の変で長刀を振るう濃姫の画。(楊斎延一 作)

注目されつつある生存説

一方、後者の生存説に関しては最近の研究で注目されはじめている。その1つが「 安土殿 = 濃姫 」説である。

『織田信雄分限帳』に、”あつち殿(安土殿)” という女性の名が記載されているのだが、この人物が濃姫ではないかと言う説である。

というのも、名が記載されている順番が信雄正室、信雄実妹に続く3番目と地位が高く、その名から安土に関係の深い人物であることが推測されるからである。確かに、この条件に当てはまる人物と言えば濃姫しかいないように思われる。

また、『氏郷記』によれば蒲生賢秀が天正10(1582)年本能寺の変の直後に安土城から信長公御台君達などを避難させたという。信長公御台とは即ち信長の正室という意味であるから、この時点で正室として考えられるのは濃姫以外いないのではないか。

もっとも『氏郷記』は寛永年間の成立であるから一次史料とは言い難い。しかし、一方の『織田信雄分限帳』は天正15(1587)年頃の織田信雄家の構成を記述したものであるから一次史料と言ってよく、『氏郷記』の内容との齟齬も無いように思える。

この2つの史料をベースにすれば、少なくとも天正15(1587)年まで信長公御台(濃姫?)は生存していたことになる。さらにその後も生存していたという説が1992年に岡田正人氏によって発表された。

岡田氏によれば、安土摠見寺蔵『泰巌相公縁会名簿』に養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されているのだという。岡田氏の調査では信長公御台は鷺山殿(濃姫)だと結論付けている。

この説が事実ならば、濃姫は江戸時代の慶長17(1612)年まで生存していたことになる。しかし、同様の記述が『大仙院文書所収養華院七佛事記』や「総見院過去帳」に見られるものの、こちらは「御台」ではなく「寵妾」、つまり側室という表記となっていて両者は食い違っている。

普通に考えれば、安土総見寺は信長自身が創建したものであるからその所蔵する名簿に間違いがあるとは考えにくい。ゆえに「御台」が正しい可能性のほうが高いと思われるので私は「御台」説を採りたいと思う。

実は信長の名補佐役だった?

戦国期の史料には女性についての記述は極めて少ない。これは男性中心の社会であったため男性の言動に関する記述が自然と多くなってしまったというだけで、女性が行動的でなかったというわけではない。

城主が出陣ともなれば、留守役として立ち振る舞わなければならないのは正室であった。これは濃姫も同様であったろう。実は濃姫の活躍をうかがわせる記述が『信長公記』に見られる。

天文23(1554)年、今川義元が緒川城の攻略を開始したため、信長は出陣をせざるを得ない状況となる。ところが、この頃は尾張平定が完了しておらず、城を空ければ対抗する清州の軍勢が攻め込んでくるのは必定であった。
これを救ったのは舅の斎藤道三であった。

『信長公記』にはこうある。

「信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣わされ候。道三かたより、正月十八日、那古野留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、(中略) 正月廿日、尾州に着き候」

要は、安東伊賀守が信長の留守居役として1000名ほどの手勢を率いて那古屋城に入ったという内容である。この安東伊賀守とは斎藤道三配下美濃三人衆の1人、安藤守就(あんどうもりなり)のことである。

実は、守就は濃姫が信長の元に嫁ぐ際に警護役として随行したというから、道三はもとより濃姫の信頼も厚かったであろうことは容易に想像できる。そういった点を考慮すると、道三への援軍要請は守就を通して濃姫サイドから行われた可能性はないだろうか。

道三の姫であり、信長の正室であるという立場は、意外に大きな権力を有していたと思われるのである。そう考えると、のちに美濃攻めの最中に美濃三人衆がそろって信長に内応したというのにも納得がいくのである。


濃姫が本能寺の変に関与?

先に私は、光秀と同族であるということが本能寺の変に影響を与えた可能性があると書いた。それは、濃姫が美濃三人衆の中で最も信頼していた安藤守就が野心ありとして追放されてしまったことに端を発したと思われる。ときに天正8(1580)年8月のことであった。

このころ信長は一族を重用し、これまでの重臣たちを遠ざけ始めていたとされ、家臣たちの不安や恐れは想像を絶するものであったろう。美濃三人衆をはじめとする美濃衆も守就の一件ではかなり肝を冷やしたであろう。

濃姫と同族である光秀も近畿管領的な役職に就き高い地位にあったが、縁戚関係にあった長宗我部氏の四国切り取り次第が信長に反古にされ、事態はこじれ始めていた。要は、濃姫の人脈が徐々に損なわれ始めていたのである。

本能寺の変四国説のイラスト
当初の信長は四国の大名・長宗我部元親の四国制圧を許可していたが…。

歴史作家の八切止夫(やぎり とめお)氏は著書の中で、明智光秀が京都に大邸宅を持っていたという点に注目し、これを濃姫の莫大な財力を背景にした援助のお陰と述べている。

確かに濃姫の財力はかなりのものであったらしく、信長に輿入れした際には那古屋城内に御殿を建設したと伝わっている。

光秀が寺社領などを押領して将軍足利義昭に注意を受けたのは元亀3(1572)年頃のことであるが、それらの財源をまだ確保していない時期から京に大邸宅を構えていたというのは明らかに不自然であるから同族の濃姫の援助である可能性は否定できない。

徐々に「信長公さえいなければ…」という雰囲気が醸成され始めていく中、複数のサイドから「信長を何とかしてくれ」という声が光秀の耳に届いていたのではないかというのが私の見立てであるが、その中には濃姫の声もあったのではないだろうか。


あとがき

織田信長の正室という、とてつもなくメジャーな存在でありながら史料にはほとんど記述のない謎の人物として知られる濃姫であるが、史料を紐解いていく中でその生き様が部分的にではあるが、浮かび上がってきたように思える。

濃姫の人の使い方は非常に巧みであり、権謀術数にもかなり長けた女性だったことも何となくわかる。父道三のDNAはしっかり濃姫に受け継がれていたようである。

ここにきて、道三が濃姫輿入れの際に「信長が本当にうつけであったなら、この短刀で殺せ」と言ったというエピソードが、かなり気になりだしている。天下統一を目前にして大事な家臣を切り捨て始めた信長を見て、濃姫は「実はとんでもないうつけであったか」と信長に見切りをつけたのかもしれない。

ちなみに本能寺を襲撃した部隊の中心は斎藤利三をはじめとする美濃衆であったが、これは単なる偶然だったのであろうか。


【参考文献】
  • 諸田玲子『帰蝶』(PHP研究所、2015年)
  • 八切 止夫『信長殺し、光秀ではない 八切意外史』(作品社、2013年)
  • 太田牛一・中川太古『現代語訳 信長公記』(中経出版、2013年)
  • 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。