「平手政秀(平出政秀)」若き信長を補佐するも、最期は謎の切腹…

平手政秀(平出政秀)のイラスト
平手政秀(平出政秀)のイラスト
平手政秀(ひらて まさひで)は織田信長の元服前から織田家に仕えていた家老の一人です。信長にとっては「爺や」とも呼ぶべき重臣のポジションにいた政秀ですが、それはそれでストレスを抱えていたようで最期はまさかの自害…。そんな苦労人であった政秀の生涯をご紹介いたします!

信長の傅役(もりやく)を担当

平手政秀は明応元(1492)年5月10日に誕生しました。父は平手経英という人物と伝わっていますが、そもそも平手氏のルーツは諸説あるため、ハッキリとしたところは分かっていません。

政秀の前半生についても史料が少なく、いつ頃からかはわからないのですが、やがて信長の父である織田信秀に仕えます。ただし、政秀は信秀よりも10歳以上も年上にあたるので、年齢を考えた場合、信長の祖父・織田信定の代より織田家に仕えていた可能性もあり得ます。

天文3(1534)年には、信長が誕生。それと同時に政秀は織田家の宿老となり、主に財務面で活躍したといいます。

信長が誕生してまもなく、父信秀は那古野城を譲って信長を移り住ませました。そしてこの時、一番家老・林秀貞、二番家老・平手政秀、三番家老・青山与佐右ヱ門、四番家老・内藤勝介らの長老を信長に付けられ、政秀は台所方の経理を任されます。


織田信秀のイラスト
「尾張の虎」と恐れられた信秀。その生涯で尾張統一はできなかった。

さらには信長が13歳で元服し、その翌天文16(1547)年に初陣を迎えた際に、政秀がこの記念すべき初陣の支度を担当したとか。信長初陣の際のいでたちは、紅筋が入った頭巾と馬乗り羽織、馬鎧であったと記録に残っています。

この戦では、信長勢およそ800騎に対して敵の今川勢は2000騎。多勢に無勢です。政秀は兵力の差を心配して、他の家老たちと共に信長の無謀な攻撃に反対をしましたが、そんなことに聞く耳を持たないのが信長です。信長は自ら軍を指揮して出陣し、敵陣のあちこちに火を放ちました。そして、その日はそのまま野営して、翌日にはしれっと那古野に帰陣。見事な奇襲攻撃で勝利を収めました。

政秀をはじめとする家老たちは信長の戦のセンスには舌を巻いたに違いありません。それと同時に、若き主君を心配していた政秀は、内心ではほっと胸をなでおろしていたことでしょう。


外交で敵対勢力との和睦に奔走

清州衆との和睦

天文16(1547)年頃、信秀が美濃の斎藤道三と争っている隙を見計らって、尾張の内部では清州衆が敵対行動にでるようになりました。

清州衆は信秀の留守中に古渡の新城へ軍を出し、城の付近に放火。信秀は道三を追い詰めることをあきらめ、美濃から帰陣せざるを得ない状況になってしまいます。政秀はこの事態を収めるため、清洲の家老衆に対して停戦を呼び掛ける手紙を再三出していましたが、交渉はなかなかうまくいきませんでした。

しかし、翌年の天文17(1548)年、政秀の努力が実を結び、なんとかお互い譲歩して和睦が成立しました。このとき政秀は、清州の家老衆であった坂井大膳、坂井甚介、河尻与一にあてて和睦を喜ぶ旨の手紙を出しています。そして、その手紙の初めには、古歌が一首したためられておりました。

「袖ひぢて結びし水のこほれるを春立つけふの風や解くらん」(古今和歌集・紀貫之)

袖を濡らして掬った水が冬に凍ったのを、今日の立春の風が溶かすのだろうか…という意味の和歌ですが、政秀はこの歌に「これまで対立していた清州衆とも、和睦した今からは穏やかな間柄になるだろう」と和睦を喜ぶ思いを込めて送ったものだと思われます。


斎藤道三との和睦

また同じ頃、信秀と斎藤道三の和睦が成り、信長と濃姫(道三の娘。帰蝶とも。)の結婚も成立していますが、これも政秀の働きがあったとされています。


斉藤道三の肖像画
美濃国での下剋上を成し遂げたことで知られる斉藤道三。

これによって信長は、本家である織田清洲家をしのぐほどの力を持った、織田弾正忠家(織田清洲家の3家老の1つ)の継承者と目されるようになりました。

そして、天文21(1552)年に信秀が急死すると、信長が家督を継ぎます。しかし、信秀の死後も傾奇ぶりが一向に収まらない信長に周囲は厳しい目を向け続けており、政秀は苦い思いをしていたようです。


教養があり、風流な文化人としての側面も

さて、ここで政秀の違う一面にも触れてみましょう。彼は和歌や連歌、茶道などに通じ、芸道に熱心であった「数寄者」としても知られています。


信長に茶湯を手ほどきした?

天文2(1533)年、公家の山科言継が尾張を訪れた折、政秀邸で歓待を受けました。その折に言継は、「種々の造作、目を驚かし候、数寄の座敷は一段なり」と日記に記しています。公家である言継でさえも、屋敷の内部の作りの立派さに目を見張り、ことに茶の湯を行う座敷の見事さには驚嘆させられるほどであったとのこと。政秀邸はかなり凝った造りであったと想像できます。

さらに政秀は、古瀬戸の平手肩衝の茶入れや合子の水翻などを所持していたともいわれ、茶の湯への情熱はかなりのものだったようです。のちに信長は茶の湯に傾倒し、茶道具の名物を各地から集めて蒐集するようになりましたが、もしかしたら信長は教育係の政秀から風流人としての影響を大きく受けていたかもしれませんね。


実は悪党?

その一方で、天文12(1543)年5月、政秀が信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏の築地費用4000貫を献上したとき、大阪の石山本願寺の証如上人からは「悪党」と評され、さらには「一段大酒(酒豪)」と酷評されています。

温厚なイメージの政秀ですが、大酒飲みで「悪党」としての評価も受けていたなんて、なんだか意外な感じもしますね。でも、そのくらいでなければ、信長の教育係は務まらなかったのかもしれません。


最期は突如切腹。その真相は?

少年期から青年期の信長は型破りな行動が目立ち、周囲からは「大うつけ」と呼ばれていました。


大うつけと呼ばれた青年信長のイラスト
派手な格好、奇行など、青年期の信長は問題児だった?

いくら注意しても、信長は効く耳を持たなかったため、政秀は主君の行動を諫めるために切腹した、というのが政秀の死の定説であり、美談ともとなっています。しかし、実際のところは、もう少し複雑な事情があったようです。

政秀には、長男の五郎右衛門、次男の監物、三男の汎秀という3人の息子がいました。『信長公記』によると、長男の五郎右衛門が所有していた馬を信長が欲しがり、譲るように申しつけたところ、五郎右衛門は「私は馬を必要とする武士ですので、お許しください」と言って断ったということです。

信長は一旦あきらめたものの、これをきっかけに次第に平手家と不和となっていったとされています。そして政秀は、信長と平手一族との間で板挟みになってしまい、いたたまれなくなって切腹したのだという説が有力です。しかし、その一方で、政秀は信長のありように落胆して希望を失い自害したという説もあり、自害の真相ははっきりしていません。


死の理由がいかなるものであったにしろ、政秀は信長のことを爺やとして気にかけ、その将来を心配していたのではないでしょうか。こうなると気になってくるのは、政秀の死をきっかけに、信長の行動に変化はあったのか?という点ではないかと思うのですが…、実のところ、政秀の切腹後も信長の行動は一貫して変わらなかったとされています。

ただ、信長は、政秀の死後に「政秀寺」を開山させ、政秀の菩提を弔わせていることから、幼いころから自分を育ててくれた爺やの死は、信長にとってかなり堪えていたみて良いのではないでしょうか。

ちなみに、政秀の息子たちはその後も信長に仕え、戦場で散っていきました。


おわりに

教養があって、風流人としても知られていた政秀でしたが、破天荒な行動の多かった信長の「爺や」としては、毎日ヤキモキした日々を送っていたのではないかと想像できます。

最期は自害という形で人生の幕を閉じた政秀ですが、政秀が信長に与えた影響は決して小さくはなかったはず。政秀の教育があってこそ、信長は天下統一が達成できたのかもしれませんね。



【主な参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』(東京堂出版、2000年)
  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記 上』(新人物往来社、2006年)
  • 岡本良一、奥野高廣、松田毅一、小和田哲男 編『織田信長事典コンパクト版』(新人物往来社、2007年)
  • 谷口克弘・岡田正人『織田信長軍団100人の武将』(新人物往来社、2009年)

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  この記事を書いた人
玉織 さん
元・医療従事者。出産・育児をきっかけに、ライター業へと転向。 現在はフリーランスとして、自分自身が「おもしろい!やってみたい!」 と思えるテーマを中心にライティングを手掛けている。 わが子の子育ても「得意を伸ばす」がモットー。

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