「明智光安」は妹に小見の方、甥に光秀、姪に濃姫をもち、明智城主も務めたキーマンだった!
- 2020/02/08
明智光安は光秀の叔父であり、明智城の城主であったとされている。大河ドラマ『麒麟がくる』では、性格俳優、西村まさ彦が演じ、味のある演技を見せている。ドラマではかなり出演シーンの多い光安であるが、実は現存する史料にはあまり記述が残されていない武将である。
さて、史料が語る光安の実像はドラマと比べていかなるものなのであろうか。
さて、史料が語る光安の実像はドラマと比べていかなるものなのであろうか。
光安は光秀の後見人
明智光安は明応9(1500)年、明智光継の三男として美濃に生まれた。光安の兄・光綱の家系は代々美濃国明智城の城主を務めていたとされる。
天文22(1553)年、この明智城の主であった兄の光綱が早世すると、光安が城主となったという。これは光綱の嫡男光秀がまだ元服前だということで、光継に後見役を仰せつかったということになっている。
ところが、不思議なことに光秀の元服後も光安が明智城主として明智家の切り盛りをし続けたという。一説には、光秀が光安に遠慮して家督の相続を固辞したとも言われるが、私はそれだけではないのではないかと思っている。
光秀の生年には諸説あり、有力なのは1528年説であるが、これは1527年生まれの斎藤義龍とほぼ同年代である。
斎藤義龍といえば、斎藤道三の嫡男であるが、道三は彼を全く評価していなかったという。『信長公記』によれば、義龍のことを「耄者(ほれもの)」と呼んで嫌い、弟の孫四郎や喜平次らを溺愛していたとされる。
「耄者」とは愚か者という意味だというから、なるほど散々な評価である。ところが、義龍の行状を見ると耄者どころか、内政・軍事ともにバランスの取れた中々有能な武将であることがわかる。
ひょっとすると、光安は光秀とほぼ同時期に元服したと思われる義龍と道三の対立が内紛につながった場合に、光秀が巻き込まれるのを危惧したのではないだろうか?
光安は義龍の有能さを見抜いていたのかもしれない。
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足利義晴に謁見
天文16(1547)年光安は、先の将軍足利義晴に謁見し、同時期に従五位下兵庫頭を下賜されたという。実は明智家は土岐源氏の流れを汲むと言われ、室町幕府とも近しい間柄であった。また、官位は武将にとって箔をつけるという意味で、相当の価値を持っていたのである。
この幕府や朝廷とのパイプ作りは、後に足利義昭に仕え幕臣となる足掛かりとなり、公家と良好な関係を築く上で、かなり役立ったのではないだろうか。
妹の小見の方は斎藤道三正室
『美濃国諸旧記』によれば、斎藤道三正室の小見の方は明智光継の娘であるという記述がある。この記述が正しいのなら、小見の方は1513年生まれであるから、光安の妹ということになる。ということは、光秀は小見の方の甥にあたる。この小見の方は斎藤道三との間に、あの織田信長の正室である濃姫をもうける。この濃姫が光秀を信長に引き合わせることになるのだから、人の縁とは不思議なものである。
小見の方は天文20(1551)年に肺病で死去したとする史料があるが、山科言継が記した『言継卿記』には、また違った記述が残されている。
永禄12(1569)年8月1日の日記には、信長が姑に礼を述べに会いに行くという記述が見える。この姑とは小見の方のことである。
山科言継がこのことに関してわざわざ虚偽の記述をする理由がないので、これは事実であると思われる。となれば、少なくともこのときまでは小見の方は生存していたとしてよいのではないか。
美濃の実力者である斎藤道三と誼を通じたことで、領地とされる東美濃を安堵されたわけであるが、このことが後に光秀が美濃を離れざるを得ない状況に追い込んでしまうのであるから、運命というものは皮肉なものである。
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明智光安=遠山景行 なのか
実は、光安は遠山景行と同一人物ではないかという説がある。というのは、鷹見弥之右衛門(たかみ うこんえもん)が記した『恵那叢書』に、「景行は土岐の族、初光安と称し斎藤道三等に仕う後、遠山景行入道宗宿と号す。」とあるからである。この説には否定的な研究者も多いと聞く。ただ、鷹見弥之右衛門は摂津兵庫出身で、織豊政権の頃から江戸初期にかけて活躍した商人である。
あまり知られた人物ではないが、関ヶ原の合戦の折には黒田官兵衛の嫡男長政の母と妻を庇護したというエピソードは割と有名かもしれない。
織豊政権から江戸初期であれば、戦国時代末期からはそう離れていないため、準一次史料位の位置づけと考えてよいのではないだろうか。
そしてさらに、『系図纂要(けいずさんよう)』を調べると、明智光秀公の叔父・明智光安が遠山入道宗叔であるという記述がある。宗叔は遠山景行が出家した後の名であるから、『系図纂要』では明智光安=遠山景行説をとっていることになる。
『系図纂要』は江戸末期に成立した系譜集成であり、著者は徳山藩出身の国学者・歴史家の飯田忠彦だと言われている。江戸末期成立であることから、一次史料でないと思ってしまいがちであるが、飯田忠彦は古くから伝わる系譜集から記録までを忠実にまとめているため史料価値が高いというのだ。
ここまで調べた時点で、私個人としては光安=景行説を支持する方向にやや傾き始めた。驚きだったのは、光安の出家後の名が宗叔である(または宗宿)であることは先に述べたが、遠山景行も出家後宗叔と名乗っているという点である。
ここまで来て、私はますます光安=景行説寄りになりつつあるのだが、何せ決定的な証拠がないのだ。新しい史料や文書などの発見を待ちたい。
道三と嫡男義龍の争いに巻き込まれ…
斎藤道三は嫡男義龍を全く評価していなかったということは、先に述べた通りである。義龍も義龍で、自分を全く評価しない道三のやり方に不満と危機感を募らせるようになっていったという。事態は次第にエスカレートしていき、遂には道三が義龍を廃嫡しようと動き出したのである。
弘治元(1555)年11月事態は急展開する。義龍は孫四郎と喜平次らをおびき出し、日根野弘就に討取らせるという挙にでる。これを知った道三は驚き、即座に兵を集めて大桑城に逃れたという。
春になると事態は切迫し、遂に長良川にて両者は対峙する。いわゆる翌弘治2(1556)年の長良川の戦いである。
この戦いで、道三は意外にもあまり兵を集められず、義龍17500名ほどに対し道三方は2700名ほどの兵で戦は行われたという。道三方は最初こそ優勢であったが、崩れ出すとあっけなかった。乱戦の中、道三は討取られてしまう。
問題は、光安が道三の外戚であったということである。そのため、光安は義龍と対立して明智城に籠城する道を選択することになる。
しかし、道三を葬り去った義龍軍は勢いに乗っていた。揖斐光就・長井道利らの猛攻に、明智城は持ちこたえられなかったのである。
光安は子の秀満に光秀とともに明智城を脱出するよう命じ、自らは自害して果てたという。享年57と伝わる。
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あとがき
結果的には美濃明智氏を没落させてしまった光安であるが、不思議なことに要所要所の判断がまずかったと批判する気には全くなれない。むしろ、その局面ごとに手堅い判断をしたのではないかとすら思えて仕方がない。どうも我々は、正しい判断を積み上げれば生き残れると思い込んでしまいがちである。これは平時にはそうであろう。しかし、当時は戦国時代であり、当たり前のように不測の事態が生じていたであろう。
したがって、正しい判断を積み上げたとしても自害に追い込まれることもあり得ないことではなかったのではないか。むしろ、私は光安の最大の功績は俊才光秀を生き延びさせたことではないかと考えている。
【参考文献】
- 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変 』(PHP文庫、2014年)
- 太田牛一・中川太古『現代語訳 信長公記』(中経出版、2013年)
- 勝俣鎮夫『戦国時代論』(岩波書店、1996年)
- 桑田忠親『斉藤道三』(新人物往来社、1973年)
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