「明智秀満(明智左馬助)」坂本城と最期をともにした家老
- 2020/04/06
明智光秀自身、出自や前半生がほとんどわかっていない戦国武将ですが、その家老である明智秀満はそれ以上に不明なところが多い人物です。光秀が信頼した家老のひとりであり、また娘婿でもあった秀満。山崎の戦いで光秀討死を知ると、光秀の妻子を刺殺して坂本城に火を放ち、最期を迎えました。
出自からはっきりしませんが、意外にも逸話は多い人物。諸説ある出自や光秀との関わり、そして最期まで見ていきましょう。
出自からはっきりしませんが、意外にも逸話は多い人物。諸説ある出自や光秀との関わり、そして最期まで見ていきましょう。
出自について
秀満の出自については諸説あり、いまだはっきりしたことはわかっていません。まず生年から不明なのです。そのあたりは主君である光秀についてすらはっきりしていないので、仕方ないことかもしれません。秀満の名は明智秀満のほか、三宅弥平次、明智弥平次、明智光春、左馬助などが知られています。三宅氏説
一般に知られる「三宅弥平次」の名から、秀満は明智の家臣のなかに複数存在する三宅氏にルーツを確認することもできますが、一説によれば光秀の叔父の光安(光康?)が三宅を名乗ったことがあり、秀満はその子であるとも言われています。『宗久茶湯日記』の記述によれば、天正8年(1580)に「三宅弥平次」の名があり、翌9年の4月10日の記録で「明智」姓に変わっています。歴史学者の高柳光寿氏は『明智光秀』(吉川弘文館)の中で、この記録から秀満が三宅氏であったことは確かだとしています。
明智氏説
上でも少し触れましたが、光秀の叔父の光安の子説もあるため、明智氏だという説があります。出典は『明智軍記』のため真偽不明。この光秀の従兄弟とする説は、ほかに『増補筒井家記』や『明智氏一族宮城相伝系図書』にも見られます。ただ、いずれも信用できる一級史料とは言い難いため、これを以って「秀満は明智氏だ」と断定することはできません。
塗師の子
その他、塗師(ぬし)の子という説もあります。『明智軍記』同様に明智関連の史料としては信用できない『細川家記』が塗師の子であるとするほか、江戸時代に肥前平戸藩主の松浦鎮信が書いた『武功雑記』には白銀子の子であると伝わっています。『武功雑記』は江戸時代の随筆ですが、戦国を生きた浪人らから聞いた話をまとめたものであるため、一応は信用にたる史料とされています。
光秀の娘婿として
秀満は光秀の長女の婿でした。そのつながりによって「三宅弥平次」から「明智弥平次(秀満)」へ姓が変わったものと考えられています。光秀の長女は最初、荒木村重の子である村次の正妻となりましたが、村重が信長に謀反を起こした際に離縁。その後秀満と再婚したとされています。この謀反が天正6年(1578)のことだったので、秀満との結婚はそれ以降と考えられます。出自の件で少し触れた『宗久茶湯日記』の記録では天正9年(1581)に秀満が「明智」姓となっているので、もしかすると再婚は天正8年から9年のどこかであったかもしれません。
一方『明智軍記』によれば、永禄12年(1569)16歳で明智左馬助光春(秀満のこと)に嫁いだことになっており、上記の村次との結婚時期と重なるため誤りであることがわかります。
出自が三宅氏であったか明智氏であったかはともかく、この婚姻によって秀満は姻戚関係を結んでいたため、秀満は明智家臣団の中では明智一族衆のひとりと考えられます。
天正9年(1581)、秀満は当時丹波経営に力を入れていた光秀の支えとなり尽力していました。この年に丹波福知山城を預かり、城代となっています。
秀満は本能寺の変の直前、秀満は光秀が謀反を打ち明けた5人の家老のひとりでもあります。それだけ信頼できる家臣だったのでしょう。
本能寺の変の先鋒
事前に謀反計画を知らされた秀満は、当日は先鋒となって本能寺の焼討を指揮しました。ちなみに、『備前老人物語』によれば光秀は最初にこの秀満に謀反を実行するべきかどうかを相談したとされています。それによると秀満は思い留まるよう諫めたのだとか。しかしそれでも迷った光秀はその他の家老にも相談し、4人ともが秀満と同じように思い留まるべきと意見します。
これを知った秀満は、「5人もの人間に打ち明けたとなるともう人の口に戸は立てられない。もし家老のひとりでも光秀に恨みを抱いたら、信長に知られるところとなる。遅かれ早かれ知られてしまうなら、もう決行するほかない」として謀反を決めたのだと伝わっています。
この逸話が本当にあった話かどうかはわかりませんが、結果として謀反自体はうまくいきました。本能寺の焼討したあと、秀満は近江安土城へ。ここで守備につきますが、6月13日に光秀が敗れたことを知ります。
安土城に火を放ったのは誰か
このとき『秀吉事記』や『太閤記』では秀満が安土城に火を放ったと記されていますが、ルイス・フロイスの書状によれば火を放ったのは信長の次男である織田信雄であったとされています。また『兼見卿記』には安土城が焼けたのは15日とあるため、その日坂本城で自刃した秀満が当日安土にいたとは考えにくく、信雄が焼いた説が正しいと思われます。
高柳光寿氏は『明智光秀』(吉川弘文館)の中で、『秀吉事記』があのように書いたのは、その時力を持っていた信雄に配慮したためであろうとしています。
秀満の最期
光秀の敗報を聞いた秀満は14日、軍をひいて坂本城へ向かいます。その途中で秀吉方の堀秀政の兵と遭遇しますが、秀満は戦いを避けて坂本城に入城したとか。湖水渡りの逸話
坂本城入城前のエピソードとして有名なのが、「明智左馬助の湖水渡り伝説」です。敵に遭遇して窮地に立たされるのですが、名馬に騎乗していた秀満は琵琶湖を馬で渡り、敵がその様子に驚いて唖然としているうちに坂本城へ入城したというのです。堀秀政は浮き沈み激しく泳ぐ馬の様子を見て今に沈むか、沈むかと見ていたそうですが、秀満はついに渡り切ってしまったのだとか。
この伝説は江戸時代に書かれた『川角太閤記』が初出。琵琶湖のほとりには今もその伝説を伝える「明智左馬之助湖水渡りの碑」があります。
坂本城の家宝を堀秀政の家老・直政に贈る
坂本城に入った秀満。もう城は堀秀政に包囲されており、逃れることは不可能でした。14日はまだ城に立てこもって防戦しますが、秀満はおそらく終わりを悟ったのでしょう。まず、この戦いによって坂本城にある家宝が失われることを惜しんだ秀満は、刀や高麗茶碗、大灯国師墨蹟、信長から拝領した平釜など、高価な名品をかき集め、目録を添えて堀秀政に託しました。秀政の家臣・堀直政に贈るよう言ったとか。
堀秀政は目録に目を通し、「光秀の秘蔵と伝わる郷義弘の脇差(倶利伽羅郷)がないのはどうしてか」と尋ねると、秀満は「この脇差は光秀秘蔵の刀であり、命もろともにと大切にしてきたもの。自分が脇に差して死出の山で光秀にお渡ししようと思っている」と答えたそうです。
この話のとおりであれば消失した坂本城跡から脇差が見つかるはずですが、探しても見当たらなかったとか。
秀満は宝を堀秀政に託すと、光秀の妻子や自身の妻を刺殺し、城に火を放つと最後に自分の腹を切って自刃したと伝わります。
その父について『兼見卿記』は、秀満自刃後しばらく、7月2日に捕らえられ粟田口で磔になって亡くなったと記しています。
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【参考文献】
- 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。
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