【家紋】信長の義兄弟にして最大の抑止力!「浅井長政」と浅井氏の家紋について
- 2020/01/08
戦国の世とは、無数の地方領主が興亡を繰り返した時代と言い換えられるかもしれません。「大大名」と呼ばれる大領主も登場しますが、おびただしい紛争を制して林立する勢力を併合・吸収していった結果ともいえるでしょう。各地の領主は近隣との戦闘に備えつつも、武力だけではなく外交政策にも腐心しなくてはなりませんでした。平和的な交渉で両者ともに益があればそれに越したことはないため、戦国の世といえども外政手腕は大きな武器となったのです。
また、領国の立地も重要なファクターのひとつでした。海に面しているのか、山間部にあるのか、周辺に野心的な大名がいるのか、主要な街道を擁しているのか……等々、立地条件はパワーバランスに直結する大きな問題となっていたのです。
そんな中、戦国時代に焦点となった国のひとつが現在の滋賀県あたりに相当する「近江(おうみ)」です。琵琶湖を抱き、また京に隣接することから水陸交通の要衝とされてきました。「日本のへそ」という例えもあるように列島のほぼ中央に位置し、京から東海・北陸・中部・東国など東日本へ陸路で行くとすれば、ほぼ通過しなくてはならない国でもありました。京への上洛を企図する北陸・東海地方以東の武将にとって、大動脈となり得る宿命を背負った土地であるということがいえるでしょう。
その近江国の北方を拠点としたのが「浅井氏」です。特に有名なのが、信長の妹である「お市の方」を継室に迎えた浅井長政です。今回は浅井長政の人生を概観しつつ、浅井家三代が使用した家紋についてみてみることにしましょう。
また、領国の立地も重要なファクターのひとつでした。海に面しているのか、山間部にあるのか、周辺に野心的な大名がいるのか、主要な街道を擁しているのか……等々、立地条件はパワーバランスに直結する大きな問題となっていたのです。
そんな中、戦国時代に焦点となった国のひとつが現在の滋賀県あたりに相当する「近江(おうみ)」です。琵琶湖を抱き、また京に隣接することから水陸交通の要衝とされてきました。「日本のへそ」という例えもあるように列島のほぼ中央に位置し、京から東海・北陸・中部・東国など東日本へ陸路で行くとすれば、ほぼ通過しなくてはならない国でもありました。京への上洛を企図する北陸・東海地方以東の武将にとって、大動脈となり得る宿命を背負った土地であるということがいえるでしょう。
その近江国の北方を拠点としたのが「浅井氏」です。特に有名なのが、信長の妹である「お市の方」を継室に迎えた浅井長政です。今回は浅井長政の人生を概観しつつ、浅井家三代が使用した家紋についてみてみることにしましょう。
「浅井 長政」の出自とは
浅井長政は北近江の浅井家において三代目、かつ最後の当主とされています。浅井家の発祥には諸説あるものの、在地豪族が「京極氏」の家臣となっていったものと考えられています。長政の祖父にあたる「浅井亮政」の代に、京極氏の内紛に乗じて北近江を掌握。南近江の「六角氏」と対立しつつも越前の「朝倉氏」と同盟関係を結ぶなど、支配力の維持に努めました。しかし二代目「浅井久政」の時代には京極氏の復興と六角氏の攻勢に押され、六角氏に臣従する形となっていたようです。
長政が六角氏への反航戦で軍を率いたのは十五歳の頃で、この時の戦いぶりと勝利により家臣団の支持を得ることに成功します。強制隠居させられた先代・久政に代わり、若くして浅井家の家督を継ぐことになりました。
有名なお市の方との結婚は、上洛を企図する信長側からの提案による同盟だったとされています。当時、織田氏は浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏と対立していたため、信長との同盟には浅井家中でも賛否があったようです。長政は織田・朝倉の不戦協定を条件に同盟を了承、お市の方は長政のもとに嫁ぐことになります。
しかし後に信長は朝倉との不戦協定を破棄して侵攻、やむなく朝倉氏の援護に回った浅井氏は本拠の小谷城にて織田氏に攻め滅ぼされるのは周知の通りです。
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浅井氏の紋について
浅井氏三代が使用した家紋として、現在三種類が確認されています。しかし代ごとに異なり、亮政は「井桁」、久政は井桁に加えて「違い扇」、そして長政は「三つ盛亀甲」がそれぞれ肖像に描かれています。したがって、北近江の浅井氏が代々どの紋を使用したかは詳らかになっていません。亮政の「井桁」は浅井の「井」の字を図案化したものと考えられ、シンプルで識別が容易なことから旗印としても用いられたと想定する研究者もいます。
久政の「違い扇」は閉じた二本の扇をクロスさせたようなデザインで、扇は神具や縁起物とも意識されたことからこれも吉祥を意味する紋といえるでしょう。
長政の三つ盛亀甲は六角形の紋様の中心に花の意匠があしらわれ、文献によって「唐花」「花角」「剣花菱」などさまざまに解釈されています。
肖像画の紋が判別しにくいためどれが正確な呼称かは諸説ありますが、「三つ盛」として家紋を強調するのは当時よく行われたことでした。そのため、本来は単体の亀甲紋だったと想定する意見もあります。
亀甲は平安時代に遡る古い意匠で、文字通り亀の甲羅と関わりの深い紋です。
「亀は万年」といわれるように長寿と繁栄を表す吉祥紋でもあり、武家にも好まれたモチーフでした。
また、亀は四神のうち北方を司る「玄武」にも通じることから、北近江の守護を願ったものという解釈も可能かもしれませんね。
おわりに
浅井長政という武将の名は、とりもなおさず織田信長の覇業の途上という文脈で語られるのが多いかと思います。しかし若年ながら武功を通じて家臣団の心をひとつにまとめ、周辺諸国との同盟など外交政策にも手腕を発揮しました。それでいて条約破棄を行った信長に対しては決然と戦闘態勢をとるなど、信義に厚い人物だったと評価できるでしょう。二十九歳という享年でしたが、お市の方との間に設けた娘たちはやがて天下人のもとへと嫁ぎ、その血脈は歴史に生き続けることになります。
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【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『元亀天正』 物集高量 1914 嵩山房
- 『見聞諸家紋』 室町時代 (新日本古典籍データベースより)
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