「島左近」三成にとって "過ぎたるもの" だった伝説の猛将。
- 2019/11/25
「三成に過ぎたるもの」という賛辞によって、戦国ファンだけでなく一般知名度も高い武将、それが島左近(しま さこん)です。石田三成の腹心として活躍する彼の逸話は数多く、特に関ケ原の戦いでは敗れこそするものの、敵軍に抜群のインパクトを残しました。
しかし、こうした華々しい言い伝えの一方で、彼の出自や最期については非常に謎が多いのも事実。そのため、現代でも左近については不確かなことが非常に多いのです。
なお、彼は生前「清興」と名乗っていたと考えられており、「左近」はあくまで通称と考えたほうがよいでしょう。ただ、知名度を考慮して本記事ではあえて「左近」という名で統一します。それでは左近の知られざる実像を紐解いていきましょう。
しかし、こうした華々しい言い伝えの一方で、彼の出自や最期については非常に謎が多いのも事実。そのため、現代でも左近については不確かなことが非常に多いのです。
なお、彼は生前「清興」と名乗っていたと考えられており、「左近」はあくまで通称と考えたほうがよいでしょう。ただ、知名度を考慮して本記事ではあえて「左近」という名で統一します。それでは左近の知られざる実像を紐解いていきましょう。
【目次】
何もかもが不確かな出自
これは冒頭でも触れましたが、左近の出自について確かなことはほとんど分かっていません。生年も全くもって不明ですが、一説には天文9(1540)年生まれと考えられており、仮にこれが真実であれば三成よりも年上の家臣であったことになります。
また、彼の出身についても様々な説が存在し、その中でも注目するべきは「大和説」と「対馬説」でしょう。
まず、大和説に注目する理由は現状で有力な見解だと考えられているためであり、この説を採用すれば彼は大和国(現在の奈良県)の在地領主であった島家に生まれていたことになります。
一方、有力説とは言い切れないものの興味を惹かれるのが対馬説で、根拠として信ぴょう性は低いものの一応史料上に「左近は対馬の人」という記載があり、また現代でも同地域に彼の墓が存在するという点が挙げられます。
ただ、信頼度を考えて対馬説は紹介のみにとどめ、以後の記載は原則として大和説を採用していくこととしましょう。
大和国で国人として生まれた左近は、まず手始めに隣国である河内国で勢力を有していた畠山氏という守護大名に仕えたといいます。
一説には畠山高政と三好長慶との間に勃発した永禄5(1562)年の教興寺の戦いに参加したと言われていますが、この戦いで畠山氏は手痛い敗北を喫しているため、参戦が真実であれば左近も敗れていることになります。しかし、この際に筒井氏の指揮下で行動を起こしたために、畠山氏の没落後になると彼らに仕えるようになったとも考えられているのです。
もっとも、そもそも本当に畠山氏に仕えていたかどうかも定かではなく、彼の生前に島氏が興福寺の僧侶を生み出しており、その縁で興福寺において衆徒と位置付けられていた筒井順紹に仕えたという説も存在します。
個人的にはこちらの説が筒井氏に仕えた過程としては自然な気がするので、真実に近いのは興福寺関連の縁なのかもしれません。
筒井家臣として名を上げる
筒井氏に仕え始めた時期こそ定かではありませんが、左近は順紹の後を継いだ筒井順慶の時代に侍大将へ抜擢されたと言われています。しかし、これもあくまで言い伝えのレベルでしか根拠を確認することができず、当時の日記類に彼の名前を確認することはできません。経緯こそ上記のように不確かなものの、どうやら左近が筒井氏の配下で働いていたことだけは間違いないようです。
具体的に「この戦でこのような戦果を残した」や「内政でこうした成果を上げた」という点はよくわからないものの、後に筒井家を離れた際にかなりの仕官願いが届けられていたということから、優れた才覚を発揮していた左近の名が広まっていたと考えるほうが自然です。
筒井氏自体は松永久秀や三好三人衆との抗争を乗り越えて成長し、やがて織田信長の配下に列せられました。その後は本能寺の変勃発によって危機的状況を迎えましたが、最終的に秀吉へ服従を表明したことで所領である大和一国は安堵されています。
その2年後に順慶が亡くなったことにより、彼の養子である筒井定次が家督を継承しました。しかし、左近はこの新君主とウマが合わなかったと伝えられており、彼は天正16(1588)年に筒井家を去ります。
出奔の理由は他に筒井家の将来性を見限ったとも、領地内で配下の農民と対立したためとも言われていますが、確かなところはわかっていません。
その後の左近については様々な場所で浪人暮らしをしていたと考えられており、法隆寺や興福寺に寄食していたとも言われます。
また、基本的には誘いを断っていたものの蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えていたという説もあり、やはり左近の能力は非常に高く評価されていたと考えるべきでしょう。
超好待遇で三成に招かれ、主に外交面で活躍したか
豊臣政権で確固たる地位を築いていた三成は、仕官の誘いを断り放浪している左近に目を付けました。彼をどうしても配下に迎えたかった三成は、なんと自身の所領が4万石足らずであったにも関わらず1万5千石もの巨大な領地を与えるという条件でスカウトしたという伝説が残されています。
そもそもこの言い伝えが真実かどうかも全くもって不明ですが、いずれにしても左近は三成に従うようになりました。
三成配下の左近がどのような活動を行っていたかについても確かなことはわかっていませんが、近年発見された書状類から推測すると、主に三成と親交があった佐竹氏との外交交渉において重要な役割を担っていたと考えられます。
左近の活動を三成の行動に照らし合わせて考えるのであれば、文禄元(1592)年以降は彼が参画した大事業である文禄の役に参加していたと考えるのが自然です。三成も渡海して朝鮮入りしていたため、彼もまた海の向こうへと向かっていたのでしょう。
ただし、三成を含め諸将の朝鮮における働きぶりは記録が数多く残されているものの、左近の動静についてはハッキリしたものが残されていません。
そのため、早期停戦派の三成に従って和平交渉に尽力したのか、はたまた武断派の武将らとともに前線で数多くの戦果を挙げたのか、そもそも朝鮮出兵に一切関与していないのか、このあたりは新史料の発見を待たなければ解明されないでしょう。
朝鮮出兵自体は慶長3(1598)年秀吉の死をもって終結したものの、その後は三成と家康との全面対立によって大戦の勃発が避けがたい情勢へと変質していきます。
左近も戦前の調略で三成に貢献したと考えられており、一説には彼と共同して家康の暗殺計画を実行に移すものの、家康に見破られて失敗に終わったとされます。
関が原で敵を震撼させるも、西軍は敗れ去ってしまう
慶長5(1600)年、いよいよ三成と家康の対立が行動になって現れ、家康が会津征伐へ赴くとその隙をついて三成が挙兵。知らせを受けて引き返してきた家康と関ケ原の地で戦うこととなりました。決戦の前日、左近は西軍の士気を鼓舞するべく、蒲生郷舎という人物とともにわずか500余りの兵を率いて敵陣に乗り込み、東軍先鋒の中村一栄・有馬豊氏らの軍勢を混乱に陥れます。
その隙をついて宇喜多家家臣の明石全登が参戦すると両軍は壊滅し、「関ケ原の前哨戦」と呼ばれる杭瀬川の戦いは西軍が勝利しました。
翌日、いよいよ関ケ原本戦が開幕すると、左近は黒田長政・加藤嘉明らの軍勢と対峙。左近の奮戦ぶりは後世まで語り継がれており、徳川方では「身の毛がよだち冷汗が出た」と記録されているほか、攻撃を担当した黒田の将兵たちが左近のいで立ちを思い出そうとするもそれが叶わず「誰一人姿を思い出せないほど恐怖を味わった」という逸話が残されています。
しかし、敵方にこれほどの恐怖を与えた左近もついに負傷してしまいました。これは黒田隊の鉄砲によるものとも言われていますが、負傷して脇を抱えられた左近の様子が「関ケ原合戦図屏風」に描かれています。
その後、一般的に左近は亡くなったと考えられています。死因は先の鉄砲傷によるというものや、加藤隊の戸川達安が彼を討ち取ったためというものなどがありますが、その最期についてはやはり詳しいことがわかっていません。彼の首や遺体も発見されておらず、それが次に述べる「生存説」につながっていくことになります。
左近は生き延びていた?数々の生存説をご紹介
関が原で敗れた左近ですが、その遺体が見つかっていないことから数多くの生存説が現代まで語り継がれています。最後に、その中のいくつかをご紹介して記事を締めたいと思います。まず、彼は三成の本拠で地理を熟知していた近江国へ逃げ込み、奥川並という山の奥深くにあった集落で隠れ住んだという伝説があることをご存じでしょうか。彼が住んでいたとされる洞窟が現存しているほか、地名にも左近の影響を感じることができるものもあります。
しかし、この地が戦後に井伊氏の領地となったことで身の危険を感じた左近は静かに去り、現在でいうところの静岡県浜松市のあたりに隠れ住んで余生を送ったようです。
もう一つ触れておくべき生存説は、京都に出て銀閣寺のあたりに隠れ住み、やがて現在も京都府上京区にある立本寺の僧侶になったという説です。
左近が寺社に深い縁を有している可能性に関しては先に触れてきた通りで、僧になっていることに違和感はありません。そして、関が原から実に30年余りを過ごしたのち、同寺で亡くなったとされています。
ただ、この伝承には客観的な証拠が現存しており、それが現代でも寺に残されている左近の墓です。ここには左近が寛永9(1632)年に亡くなったという文が刻まれており、さらに埋葬様式が「土葬」であることも注目されています。
実際、この寺に存在する遺体はすべて火葬によって葬られており、左近だけが土葬によって葬られたというのです。これは、見方によっては左近が特別な人物と考えられていたことを示す証拠になるでしょう。
【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 花ケ前盛明編『島左近のすべて』(新人物往来社、2001年)
- 楠戸義昭『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP研究所、2017年)
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