【家紋】武勇と傾奇の絶妙なバランス。加賀百万石「前田氏」の家紋について
- 2019/12/03
一口に「戦国武将」といっても、その生き方や処世術にはさまざまなタイプがあり、戦乱の世であっても人間味あふれたエピソードが数多く伝わっています。武勇を前面に押し出した実直な軍人タイプや、戦術や謀略を駆使した智将タイプ、さらには周辺諸国とのパワーバランスを巧みに操って生き抜いた外交手腕タイプ等々、同じ戦国武将でもまったく異なる家風をもっています。
さらには、常識にとらわれない豪快で奇抜な行動や服装をする「傾奇者(かぶきもの)」という存在があり、戦国武将のなかにもそんな「傾(かぶ)いた」人たちがいました。仙台の伊達政宗などがとても有名ですが、加賀藩の祖として知られる「前田利家」も傾奇者としての印象が強い武将の一人です。
事実上の天下人となった豊臣秀吉の盟友にして、徳川氏も警戒し続けたという「加賀百万石」の男たち。今回はそんな、前田氏の家紋についてのお話です。
さらには、常識にとらわれない豪快で奇抜な行動や服装をする「傾奇者(かぶきもの)」という存在があり、戦国武将のなかにもそんな「傾(かぶ)いた」人たちがいました。仙台の伊達政宗などがとても有名ですが、加賀藩の祖として知られる「前田利家」も傾奇者としての印象が強い武将の一人です。
事実上の天下人となった豊臣秀吉の盟友にして、徳川氏も警戒し続けたという「加賀百万石」の男たち。今回はそんな、前田氏の家紋についてのお話です。
「前田氏」とは
前田氏には多くの系統がありますが、利家は尾張の土豪である荒子前田家(別称:前田蔵人家)に生まれました。詳細な家系はよくわかっていませんが、若き日の利家は織田信長に仕えていたことがよく知られています。「小姓」という身の回りの世話をする側仕えであり、信長とは非常に近しい距離での主従関係であったとされています。
若年には「又左衛門」と名乗った利家は、長槍の扱いが巧みであったことから「槍の又左」の通称で知られ、信長麾下の精鋭部隊のひとつである「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の筆頭となりました。
「母衣(ほろ)」とは竹などで編んだ球状のフレームに布をかぶせたもので、鎧の背中に取り付けて敵の矢を防御する武具です。これを装備した者は「母衣武者」とも呼ばれ、戦場の花形として認知されたといわれています。
順調なキャリアを歩んでいると思われた利家ですが、ある時窃盗の疑いや度重なる侮辱から信長の同朋衆であった茶坊主を斬り殺してしまいます。
この事件によって利家は信長から出仕停止の処分を受け、浪人の身分となってしまいますが、本来はもっと重大な処罰がされるところを他の家臣たちが取りなしたことによる処置だったといいます。
利家はその後、現代風にいえば出勤不可の状態でありながら無断で「桶狭間の戦い」「森部の戦い」に参戦、二度目の著しい武功によって復帰を許されます。
以降は信長配下の将として数々の戦に加わり、柴田勝家の与力としても活躍しました。
同僚である秀吉とは非常に親密だったといわれ、特に利家の妻「まつ」と秀吉の妻「ねね」の親交が深かったとも伝わっています。
柴田勝家の配下であったことから信長の死後は一時的に秀吉と対立したものの、秀吉の動きに呼応するような動きをみせていたことが指摘されています。
豊臣政権下では五大老の上席として、また豊臣家嫡男の「豊臣秀頼」の後見として重要なポストを占め、台頭しつつあった徳川家康への抑えとしての役割も果たしていたといいます。
利家の死後も加賀前田家は徳川氏から常に警戒されたともいわれ、加賀前田家三代目の「前田利常」はあえて暗愚を装い、その疑心をかわそうとしたなどのエピソードが残されています。
家紋は「加賀梅鉢」、支藩にそれぞれのバリエーションも
前田家の家紋は真ん中に小さな丸、その周囲に五つの丸を配して梅の花をかたどった「梅鉢」の紋を使用しています。前田宗家の梅鉢紋は周囲の丸から中心の丸に向かってそれぞれ軸のようなものが伸びており、さらにその間に細長い五角が突き出るという独特の形をしています。これを「加賀梅鉢」と呼び、前田宗家の独占紋として知られています。
加賀藩には「大聖寺藩」「富山藩」「七日市藩」などの支藩があり、それぞれに少しずつ異なる梅鉢紋を用いていました。利家は秀吉から「桐」と「菊」の紋も下賜されていましたが、ほぼ梅鉢紋のみを使用したと考えられています。
梅の紋といえば学問の神・天神として「菅原道真」を祀る天満宮の神紋が有名ですが、前田氏は菅原氏の末裔であるともいわれているようです。
おわりに:あえて「争わない」という強さ
徹底した槍働きで天下に影響する一国の主にまで上り詰めた前田利家。若年の傾奇ぶりや武辺者のイメージに反して、絶妙なバランス感覚を持った世渡り上手な人物でもあったようです。重要な交渉や折衝にその能力を発揮し、一種独特の凄味と安心感を併せもつ大人の風格を有していたのかもしれません。後年には茶の湯や能楽など文化面の修養も怠らず、当時の武将としては異例といわれるように自前の算盤を所持して自ら経済状況の確認を欠かさなかったといいます。単なる武力だけが世の中を動かすわけではないということをよく理解していたともいえ、「争わない」ことで得られる本当の強さという境地に達した人だったのではないでしょうか。
そんな利家の作り上げた国は、「百万石」という美称や梅鉢の紋とともに、代々伝えられていくことになったのです。
【参考文献】
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
- 「前田氏の發祥」『石川県史 第1編』 石川県 編 1933
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
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