「前田利長」利家死後、家康の前田討伐という難局を乗り越える!
- 2020/08/16
前田利家は言うに及ばず、利常もその名は割と知れているが、加賀前田家2代当主・前田利長(まえだ としなが)についてはどうであろう。2代目のジンクスよろしく「父親の業績を引き継いだだけ」という評価が定着している感がある。ところが、利長の業績はそれにとどまらない。史料が示す真の利長像を浮き彫りにしてみたい。
織田家臣時代
幼名犬千代
利長は永禄5(1562)年1月12日、信長の家臣・前田利家の長男として生を受ける。幼名は父と同じ犬千代であったという。ちなみに、この頃利家は信長から出仕停止が解かれたばかりであり、徐々に出世街道に戻りつつあった。
府中城主
利長は利家同様、戦も政もそつなくこなすタイプの武将であったようだ。天正9(1581)年、越前一向一揆の鎮圧の功により、利家が能登23万石を拝領したことに伴って、利長に府中3万3000石が与えられたのである。父の旧領を与えられ、同時期に信長の娘を娶っているところを見ると、信長の評価は悪くなかったものと思われる。
本能寺の変
天正10(1582)年本能寺の変の際、利長は妻の永姫と共に上洛中であり、変の報を近江の瀬田で聞いたという。このときの利長の行動で判明しているのは、永姫を本拠地である尾張荒子へ逃がしたということである。その後の利長の動きは判然としない。一説には、信長二男織田信雄の軍に加勢したとも、蒲生賢秀と合流したとも言われる。
賤ヶ岳の戦い
清洲会議の後、父利家は柴田勝家方につく。それに伴い、利長も勝家方の武将として賤ヶ岳の戦いにも従軍するが、早くから秀吉方に寝返る算段がなされていたようで、利長もこれを知らされていた可能性は高い。それを裏付けるかのように、秀吉が美濃大返しによって北近江まで戻ると、前田隊は突如戦線離脱する。その後、前田隊が越前府中城に退却し、秀吉と和睦したのは史実でよく知られたところである。
利長の出陣をめぐって
父利家は、勝家の籠る北ノ庄城攻めの先鋒として従軍する際、利長が僅か2騎の供回りと知ると、「孫四郎(利長)は置いていく」と言ったという。確かに僅かの供回りでは、乱戦に巻き込まれた際に命を落とす可能性が高まる。ところが、利長の母まつは驚いたことに、利長の従軍を主張したらしいのだ。
まつの真意は記されていないが、当時の前田家が置かれた状況を考えれば、なんとなくその理由はわかる。
利家と秀吉は親友といってもよい間柄ではあるが、賤ヶ岳の戦いでは勝家を介して一時的に敵味方に分かれてしまった。そもそもが、勝家に義理立てしたが故の行動で、早くから秀吉に内応していた可能性が高いだろう。
しかし事情はどうあれ、表向きには寝返りには違いない。秀吉は利家を疑ってはいなかったと思われるが、秀吉配下の武将はどうであろうか…。おそらく秀吉ほどは利家を信用していなかったのではないか。わずかでも疑念を抱かせぬよう、まつは利長を参陣させることを進言したように思えるのである。
まつの思惑の通り、利家は羽柴家中で信任を得てさらに飛躍していくこととなる。
100万石を相続
秀吉は信長同様、利長を高く評価していたようだ。というのも、小牧長久手の戦いを経て、天正13(1585)年の佐々成政討伐の後に前田家は98万石を拝領しているが、そのうちの40万石は利長に与えられているからである。また、幾度となく重要な戦に利長を従軍させているという点も見逃せないであろう。
史料では九州平定及び小田原征伐において、各地で転戦を重ねているのが確認できる。特に天正15(1587)年の九州征伐では、あの名将・蒲生氏郷と共に岩石城を落とす活躍を見せている。
父利家でさえ、戦の進捗について秀吉から叱責を受けたことがあるのであるが、利長についてはそのような記述はみられないということは注目に値しよう。
やはり、利長は万事そつなくこなす武将であったようだ。このあたり、母まつの遺伝ではないかと私は勝手に推測している。
慶長3(1598)年、利長は利家より家督を譲られ、前田家98万石の舵取りは利長に委ねられることとなる。
家康の一手
慶長4(1599)年、父利家が死去する。五大老筆頭の徳川家康の台頭、そして文治派と武断派の対立激化の中での死であった。生前、利家は五大老と豊臣秀頼の傅役を兼任していたが、その職は利長に引き継がれることとなる。実は、利家は利長に「3年は上方を離れるな」と遺言していたという。ところが、利長は何故かこの遺言に従わず、すぐに金沢へ帰国している。
利長が帰国した背景
『三壺記』によると家康に勧められての帰国であったとされるが、はっきりとしたことはわからない。私は、増田長盛の動きが気になっている。彼は利家の死後、三成ら反家康派の動きが活発化するや、これを支持した人物である。
なし崩し的ではあるが、この動きの急先鋒となったのは利家の後を継いだ利長であった。ところが、利長が金沢に帰国すると、長盛は「利長に家康への叛意あり」と讒言しているのだ。
一見、家康に取り込まれてしまったかのような長盛であるが、事はそう単純でない。実は、関ヶ原の前哨戦である「伏見城の戦い」では西軍の三成方として戦っている。しかしその一方で、三成の挙兵を家康に密告するなどの裏切り行為を重ねているもいる。。これは一体どういうことなのか?
単に家康の調略に下ったわけではないであろう。キーワードは「秀頼」だと思われる。
長盛はあくまで豊臣家への忠義を通そうとしただけだと考えるとすっきりと筋が通る。彼の行動を辿ると、関ヶ原の戦いの本戦には参加していないが、西軍につくという立場を変えていない。それが元で改易され、高野山預かりとなるが、息子の増田盛次は大坂夏の陣では仕官していた尾張藩を出奔し、豊臣方につくため大坂城に入城している。
これは、父長盛と相談の上での行動であったという。つまり、豊臣家への忠誠心は一貫して変わっていないのである。
実は、利家と家康が対立を深めた際、和解に奔走したのは利長や浅野長政らであった。ひょっとするとこの当時、長盛は利長と家康が接近するのを恐れたのかもしれない。
確かに、五大老の筆頭格である2人が接近すると、秀頼の将来に暗雲が立ち込めるような気がするのは理解できる。とすれば、長盛が讒言したのは利長と家康を引き離すためではないか。
これに関連して興味深いのは、利家・家康和解に動いた浅野長政らもこの讒言によって連座させられているということだ。しかしながら、家康は長盛のそんな心の内を見透かしていたものと思われる。
迫る動乱
家康による加賀征伐
そもそもは利長と家康は当初から協調して豊臣政権を支える立場であったという説がある。この説をとるならば、加賀征伐をほのめかし、風聞を流したのはおそらく家康であろう。この噂に利長は心底驚いたのではないだろうか。
しかし、利長は家康が政権内で専権を握ろうという目論見を持っていることはすぐにわかったはずだ。そして、まだ若輩の自分が政治力において家康に敵おうはずはないということも理解していただろう。家康は彼の深謀遠慮ぶりを高く評価していたのではないか。
前田家中は交戦派と回避派の二つに分かれ、利長は家臣たちを取りまとめるのに苦心はするが、挙兵するほど阿呆ではないと踏んでいたと思われる。実際、利長は出家して芳春院となっていた母まつを人質として江戸に送ることを決意する。
皮肉なことに長盛の讒言は結果的に利長・家康ラインをより強固に、そして強制的なものにしてしまったというのが、私の見立てである。
それにしても、この危機に際して、利長の判断は的確であった。当初の「家康と一戦交える」という判断は、おそらく建前ではないか。利長はまずは、交戦派たちの顔を立てたのだろう。
そして、家康との戦は避けるべきという回避派が異を唱えるや、横山長知らをはじめとする重臣たちと議論を交わしたのではないだろうか。家康への服従は、母や重臣に説得されたものということにしたのではないか。
わたしが、このように考えるのは、関ヶ原の戦い後の論功行賞で前田家が98万石から120万石へ加増されているからである。
相手は、あの疑り深い家康である。本当に利家に叛意ありと思っていたのなら加賀征伐は行われていた可能性は低くはないし、仮に征伐は行われず、芳春院を人質として江戸へ送ることで決着したとしても、関ヶ原後の加増はなかったであろう。
関ヶ原
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで東軍についた利長は金沢を出陣する。意外なことに、利長は関ヶ原の本戦には参加していない。よって、この出陣の目的については上杉討伐に向かうためという説と、石田三成の挙兵に対処するためという説の2つがあり、未だに結論が出ていない。
ともかく、出陣後利長は、手始めに大聖寺城を攻略し、越前までを平定している。その後、金沢へ向かうが、その背後を小松城の丹羽長重軍に強襲されるも間一髪のところで撃退している。世に言う浅井畷の戦いである。
その後は丹羽長重と和睦し、再び西上し始める。この際、七尾城主であった弟の利政の動きが異常に遅く、利長はかなり苛立っていたらしい。実は利政は妻子を西軍の人質となっていた関係で、その安否を確認せずには動けないという事情があったのであるが、このため利長の西上はかなり遅れてしまう。
結果として、利長は関ヶ原の本戦には間に合わなかったのである。
利政のこの行動に、利長は激怒したという。関ヶ原で手柄を立てて所領を安堵してもらう算段が大きく狂ってしまったからであるが、利長は何と利政が西軍に与したと家康に訴えるという挙に出る。
戦後の論功行賞では利政の能登22万石・小松領12万石・大聖寺稜6万石が加増され、石高120万石の加賀藩が成立したのであるが、利政の件が功を奏したのであろうか。
死因にまつわる謎
利長には男子がなく、異母弟の利常を養子に迎え、慶長10(1605)年には隠居して家督を譲る。慶長14(1609)年頃から梅毒による腫物が悪化し、慶長19(1614)年5月20日高岡城で死去したというのが表向きの歴史である。しかし、一方では加賀藩の文書である『懐恵夜話』には服毒自殺したという記述があるという。
また、利長毒殺説も存在するのであるが、この当時から毒による死であることは割と知られていたのではないか。そして、病気に臥せる利長の元に家康が医師を派遣したという記録もあると言い、毒殺とすれば家康が一番怪しい。
さらに利長が死去したのが大坂冬の陣の半年ほど前のことであり、その後大坂城にいた信長の弟信包(のぶかね)も急死しているが、これも毒殺の疑いがあるというのだ。
しかし、毒殺が事実であったとしても、さすがに家康による毒殺とは書けなかったのであろう。毒による死に触れないのが不自然なほど、前田家中では知られていた事実であったと推測される。
あとがき
前田家関連の史料を調べているうちに面白い事実を発見した。加賀征伐の風聞に触れ、重臣横山長知は江戸へ3度も上り、家康に弁明を行ったとされている。『杉本義隣覚書』には、家康が「身の証を立てたいと申すならそなた(利長)の母を江戸へ連れてまいれ。」と迫ったとの記述も残されている。
さて、この文書を書いた杉本義隣(よしちか)であるが、加賀前田家5代当主前田綱紀の家臣であった人物である。
主に活躍した時代は元禄年間であり、あの赤穂浪士事件を最も早く伝えた書物『赤穂鐘秀記』を執筆したことを知る人は少ないであろう。
不思議なのは、加賀藩士がなぜ江戸での事件を真っ先に知り得たのかということだ。これには諸説あるが、私が注目したのは高度な忍びの組織を持っていたという説である。加賀藩の史料を調べると、江戸の情報を極めて速く入手していたことがわかるのだという。
この説を取ると、『杉本義隣覚書』の内容は俄然真実味を帯びてくる。おそらく、横山長知と家康の会話の一部始終を忍びが聞いていたのではないか。
家康の圧力に屈して母芳春院を人質に差し出したとあっては前田の名折れとばかりに、芳春院自ら人質を志願したというストーリーが出来上がったような気がしてならないのである。
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【参考文献】
- 大西泰正『前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説』平凡社、2019年
- 見瀬和雄『前田利長』吉川弘文館、2018年
- 池田公一『名君 前田利長』 KADOKAWA、2015年
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