「どうする家康」愚将か名将か? …今川義元、その知られざる生い立ち

 駿河国の戦国大名・今川義元というと、皆さんはどのようなイメージを持っていますか?最もメジャーな印象は、永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで、尾張国の織田信長に敗れたというものではないでしょうか。大河ドラマや時代劇を観ない人でも、この事は日本史教科書に載っていますので。

 時代劇をよく観る人にとっては、義元と言えば、公家のような格好をして、輿に乗り、最期は桶狭間で敗れていく、軟弱な敗者のイメージが強いのではないかと思います。桶狭間での敗戦の印象が強すぎて、義元のそれ以外の動向は、一般には余り知られていないのではないかと考えています(お膝元であった静岡県には、徳川家康の銅像はあるのに、義元の銅像はないという声も耳にします)。

 しかし、それでは、義元が余りに可哀想!ということで、ここからは、義元はどのような人生を歩んだ武将だったのか、基礎的な情報を確認していきたいと思います。ちなみに大河ドラマ「どうする家康」では、義元役は能楽師で俳優の野村萬斎さんが演じます。しかも、同ドラマの第1回目は、桶狭間合戦からスタートのようですので、いきなり「義元戦死」というこれまた義元にとっては、少し可哀想な扱いですので「桶狭間以前」の義元を押さえておきましょう。

 義元がいつ生まれたのかについては、諸説ありますが、通説は永正16年(1519)です。父は今川氏親。伯父・北条早雲の助けで、家督を継いだことで有名です。駿河・遠江の守護として検地を行い、法律集「今川仮名目録」を制定するなど、今川氏が戦国大名として羽ばたく基盤を作った人物として、義元の父・氏親は評価できると思います。

 そして義元の母は、氏親の正室・寿桂尼。中級クラスの公家・中御門宣胤の娘でした。ちなみに、この寿桂尼もドラマにおいては濃いキャラクターで描かれることが多いように思います。息子の義元にあれこれ口出しする「子離れ」できない母親。一方の義元も母に反抗できない「マザコン」のような描かれ方をドラマでされているようにも感じます。

 余談となりますが、私のなかで、大河ドラマにおける寿桂尼役で最も印象に残っているのは女優・岸田今日子さん演じる寿桂尼(1988年放送、武田信玄)です。

※参考:駿河今川氏の略系図(戦ヒス編集部作成)
※参考:駿河今川氏の略系図(戦ヒス編集部作成)

 さて、氏親と寿桂尼の結婚は、1511年頃という説、1505年頃との説があります。義元は長男ではありません。長男は氏輝(1513年誕生)です。次男は彦五郎、三男は玄広恵探(母は側室の福島氏)、四男は象耳泉奘。義元は五男だったのです。これ、義元が家督を継ぐのはなかなか難しそうですよね。

 しかし、義元は後に家督を継承することになるのです。義元の幼名は方菊丸と言われています。方菊丸は、4・5歳の頃に駿河国富士郡の善得寺に入れられます。方菊丸の養育を任されたのが禅僧・太原雪斎です。当時、雪斎は京都の建仁寺で修行していました。そこに氏親の使者がやって来て、方菊丸の養育を依頼。が、雪斎は2度断ったといいます。ようやく3度目で国守の命令を拒むことはできず、受諾したとの逸話が残っています。劉備元徳が諸葛孔明を招く時の「三顧の礼」を彷彿とさせます。

 では、氏親はなぜ雪斎に白羽の矢を立てたのか。雪斎の父は、庵原氏、母は興津氏の娘。何れも、今川氏の重臣でした。そうした縁から雪斎は方菊丸の養育係になったのでしょう。雪斎は、都から駿河の善得寺に入りますが、同寺は雪斎が最初に修行をしていた場所でした。

 さて、氏親は大永6年(1526)に亡くなりますが、その葬儀の席には、方菊丸(8歳)の姿もありました。しかし前述のように、彼は長男ではありませんので、家督は長兄の氏輝が継ぐことになります。

 方菊丸は12歳の時(1530年)、得度(仏門に入り、僧侶となる)。承芳と名乗ります(後に栴岳との道号を与えられ、栴岳承芳となる)。1532年までには、京都の建仁寺に入り、学識を深めることになるのです。都において、承芳は漢詩を作ったり、公家と交流するなどしていたとのこと。ところが、承芳はずっと建仁寺にいたわけではなく、途中でそこを飛び出して、妙心寺に移っています。これは、雪斎が妙心寺の大休宗休を慕うに至ったことが大きいと考えられます。

 承芳と雪斎にとっての次なる転機は、駿河国への帰国です。彼らがいつ、駿河に帰ったのか、これについても諸説あります。天文4年(1535)5月以前とするもの、同年の夏頃とするものなどがあります。承芳が帰国することになった背景には、同年の7月から8月に、甲斐の武田信虎と駿河の今川氏輝の軍勢が国境で激突したことがあるとされてきました。政情が不安定となった駿河の富士郡に、兄・氏輝は弟の承芳を置き、安定させようとしたというのです。

 また、一説によると、仏事で駿河に戻った承芳を氏輝が見て、自分の片腕にしようとしたとの見解もあります。兎にも角にも、承芳は再び、駿河に舞い戻ってくるのです。

 しかし、承芳が駿河に戻った翌天文5年(1536)3月17日、とんでもない事態が起こります。長兄の氏輝が急死したのです。急死したのは氏輝だけではありません。氏輝の弟の彦五郎も同じ日に亡くなってしまうのでした。これほど不可解で謎めいた死というものも、そうそうないでしょう。2人の兄の死により、承芳(後の義元)の人生も大きく変わってくるのです。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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