坂本龍馬が光秀の子孫ってホント!?歴史上の偉人のつながりを検証

坂本龍馬は明智光秀の子孫。そんなうわさがあるのをご存知でしょうか。光秀と龍馬、どちらもその名を知らない人はいないほど歴史上で有名な人物です。龍馬といえば、信長とならんで「尊敬する偉人ランキング」みたいなものにだいたいランクインしているような人気の偉人。しかし、その龍馬が光秀の子孫だったとはあまり知られていないような……。本当なのかどうか、調べてみました。

坂本龍馬は「明智 秀満」の末裔?

坂本龍馬の光秀後裔説について、光秀や龍馬に関する書籍をあたってみてもなかなかめぼしい史料は出てきません。じゃあ出所は何だったのかというと、明治時代の小説家・坂崎紫瀾(さかざきしらん)による坂本龍馬の伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』です。

その中にはこんな由緒が書かれています。

  • 祖先は明智左馬之助光俊の一類で、坂本落城の際に「坂本」と姓を改めた(※明智光俊は光秀の娘婿・明智秀満の別名です。)
  • 一時は美濃関ケ原のあたりにいたが、その後ゆえあって土佐へ移住した

この小説は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』など、のちの龍馬作品の原型にもなったとされる作品なのですが、そうはいっても小説。歴史を元にしているとはいえ創作性が強く、この小説の記述をもって龍馬の光秀後裔説を立証することはできません。

坂本龍馬のイラスト

光秀子孫説の根拠1:家紋

ただ、何の理由もなく創作したとは考えにくい。突然降って湧いたわけではないでしょう。龍馬と光秀を結びつける根拠はいくつかあります。

坂本家の家紋「組み合わせ桝に桔梗」

まずは坂本家の家紋です。龍馬の家の家紋は組み合わせ桝に桔梗。中心に明智の家紋と同じ桔梗を採用しています。

家紋「組み合わせ桝に桔梗」
家紋「組み合わせ桝に桔梗」
明智光秀の家紋「水色桔梗」
明智光秀の家紋「水色桔梗」

「お、これなら光秀にゆかりがある家じゃないか!」と思うかもしれませんが、残念。坂本家が郷氏の身分になる以前は、「丸に田の字」を家紋としていたのです。

桔梗紋は明智に限らず、土岐氏や肥田氏など武家ではよく使われている紋ですから、坂本家も郷氏になるのをきっかけに名門にあやかろうと選んだのかもしれません。もともと別の紋であったのなら、ここから光秀に結びつけることはできません。


光秀子孫説の根拠2:城に由来

「坂本」姓は坂本城に由来する?

坂本家は紀姓坂本氏であった説があります。龍馬自身、紀氏であるとして紀貫之の子孫を称していました。この紀姓坂本氏の本貫地が、光秀ゆかりの近江国志賀郡の坂本だった、というのです。

坂本城跡の明智光秀像
坂本城跡の明智光秀像

だから坂本姓は坂本城に由来するのだ、という説があるのですが、これもどうなんでしょうか。

龍馬の先祖の姓はもともと「大濱」氏であったようですし、それ以前は確かな名字もない百姓だったとか。大濱以降は才谷屋という屋号で豪商をしており、6代目になると直益が郷氏の株を買って郷氏の身分を手に入れ、才谷家の分家として坂本姓を名乗るようになったということです。

となれば家紋同様、光秀に結びつけるのは難しいでしょう。そもそも「坂本」という地名は全国あちこちにあり、地名が坂本だから光秀の子孫、とするのは少々短絡的な考えなのかもしれません。

「亀山社中」は亀山城に由来?

龍馬が仲間とともに結成した貿易会社「亀山社中」。この「亀山」が、光秀の居城・亀山城に由来するという説もあります。

明治時代の丹波亀山城
明治時代の丹波亀山城

しかしこれも結成した場所が長崎の亀山にあったためです。『汗血千里駒』以降、後裔説がささやかれるようになって生まれた後付けの説でしょう。

光秀子孫説の根拠3:「太郎五郎」の墓

坂本家初代・太郎五郎の墓が高知県南国市にあります。そこには、「弘治永禄の頃、畿内の戦乱から逃れてこの地(土佐国殖田郷才谷村)にやってきた」、と記されています。

太郎五郎は明智秀満(光春)の子とも言われています。土佐の大名であった長宗我部元親の妻は石谷氏の娘で、光秀の家老・斎藤利三の縁者でした。土佐と光秀には深いつながりがあったわけです。

※参考:長宗我部氏と石谷・斎藤のつながり

太郎五郎が光秀の子孫だとして、その縁で長宗我部を頼って土佐にやってきた可能性も考えられますが、坂本龍馬記念館の公式HPによると「その場合、才谷村のような山間部ではなく、平野部の一定の領地を与えられてもおかしくはないことから、明智後裔説は疑問視されて」いる、とあります。

太郎五郎が家臣斎藤家の縁で長宗我部を頼ってきたにしては、待遇がよくないのでは?ということ。これも根拠としては微妙です。

まとめ

龍馬自身は紀貫之の子孫を自称していたが…

「坂本」姓が近江国の坂本に由来する、紀姓坂本氏であるとはいえ、そもそも龍馬自身は紀貫之の子孫を自称していました。墓石にも「紀直柔」と彫られています。

もしかすると謀反人の明智光秀の子孫だと名乗りたくなかったのかもしれませんが、江戸時代に入ると光秀の謀反人ではない面が観直され始めているので、あえてその名を語るのを避けたとも考えにくいでしょう。

もしかしたら龍馬自身、光秀の子孫だとは考えもしなかった(子孫ではないから)のではないでしょうか。

末裔というには証拠がなさすぎ!?

まず、龍馬を光秀の末裔とする説の初出が明治時代の伝記小説ということ。小説は歴史書でも研究論文でもなく、創作です。そこに上記のいくつかの根拠が示されていたといっても、どれも都市伝説の域を出ないもので、証拠というほどではありません。

この件については高知県にある坂本龍馬記念館の公式サイトの中の「龍馬FAQ」に言及があります。

上記の根拠とされる説を挙げ、「坂本家の史料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていない」としつつも、坂本家の中で言い伝えとして受け継がれていることから、「資料がないことを理由に、否定することもできない」としています。

かといって後裔説を裏付ける証拠もなく……。よって、今ある根拠によって坂本龍馬を光秀の子孫とするのは難しいでしょう。




【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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