「小豆坂の戦い(1542, 1548年)」は本当に2度あったのか?今川氏と織田氏の激戦を検証!
- 2020/01/30
戦国乱世の革命児・織田信長が颯爽と世に登場する以前、信長の父親である織田信秀は、三河国を舞台に二度にわたって今川義元と激戦を繰り広げました。それが「第一次小豆坂の戦い」と、「第二次小豆坂の戦い」です。
しかし近年、小豆坂の戦いは一度だけだったのではないかという説も注目されています。今回はその理由、そして通説である2つの小豆坂の戦いの内容をみていきます。
しかし近年、小豆坂の戦いは一度だけだったのではないかという説も注目されています。今回はその理由、そして通説である2つの小豆坂の戦いの内容をみていきます。
合戦背景は三河国を巡る領土争い
三河国の混乱
それでは小豆坂の戦いが起こった背景を見ていきましょう。戦いの舞台となったのは松平氏の本拠・岡崎城の近く、三河国の小豆坂。織田でも今川でもない、松平氏の支配する三河国においてなぜ織田と今川の衝突が起きたのでしょうか?松平氏は家康の祖父である松平清康のときの大永6年(1526)、5代に渡って居城としてきた安祥城から岡崎城に本城を移し、享禄2年(1529)には今川氏の勢力下だった吉田城を攻略。
これによって田原城の戸田氏をはじめ、東・北三河の国衆が清康に帰属しました。さらに天文4年(1535)には織田氏を攻めて尾張国守山に布陣しますが、清康はここで近臣に暗殺されてしまいます。
いわゆる「守山崩れ」という事件ですが、このとき嫡子の仙千代(のちの松平広忠。家康の父)はまだ10歳でしたから、以後松平氏による支配力は大きく後退してしまうのです。
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織田信秀の安祥城攻略
この好機に三河国侵攻を積極的に行ったのが織田信秀です。やがて広忠は今川義元に援助を要請し、織田 vs 今川・松平連合の戦いが三河国で繰り広げられました。信秀は天文9年(1540)6月、かつて松平氏の本城だった安祥城を攻め、城主である松平長家を討ち、ついに攻略しました。これにより三河国佐々木の松平忠倫、桜井の松平清定といった国衆が信秀に従属しています。
武名が世に轟いた信秀は、軍事面だけでなく政治面でも活発に行動し、伊勢神宮にも造替費として700貫寄進し、ついに三河守に任じられました。その後の織田と今川の戦いはこの三河国安祥城を巡る攻防戦となるのです。
第一次小豆坂の戦い、第二次小豆坂の戦い共に信秀は安祥城を出陣して今川勢と激突しています。ただし、近年では信秀の安祥城の攻略は天文16年(1547)という説も登場しています。もしこの説が真実だった場合、第一次小豆坂の戦いが否定されるだけでなく、信秀の三河国進出のタイミングも大きく変わることになります。が、今のところハッキリしていません。
小豆坂の戦いの謎
第一次、第二次小豆坂の戦い
さて、第一次と第二次の小豆坂の戦いの舞台は同じですが、時期がずれていて2度あるのはなぜでしょうか?太田牛一が著した『信長公記』によると、小豆坂の戦いは天文11年(1542)8月のことと記されていますが、『三河物語』だと天文17年(1548)3月です。
時期は6年も違うのです。この6年という歳月を考えると、三河国の支配者である松平氏も、尾張国の支配者である織田氏の立場や権勢も大きく変わっており、2つの戦いはまったく異なる環境だったのでしょう。
場所が同じというだけで戦い方も活躍した武将も違いますから小豆坂の戦いは二度起きたと考えるのが自然です。なので第一次と第二次に分けられているのは、参考史料を複合した結果なのです。
なぜ一方の合戦だけ誤りだと指摘されるのか
それにも関わらず、なぜ小豆坂の戦いは一度だけという説が浮上したのでしょうか。それは『信長公記』『三河物語』『松平記』といった各史料の中で ”二度起きた" という記載がひとつもないからです。第二次小豆坂の戦い(1548)については義元の感謝状が残されているため、信憑性が高く、合戦があったことはほぼ間違いないようです。しかし、問題は第一次小豆坂の戦い(1542)の方です。『信長公記』に記載のものは他の一次史料で裏付けがとれていないため、信憑性に疑問が残っているのです。
では、第一次小豆坂の戦いはなかった、と言い切れるものでもありません。そもそも『信長公記』と『三河物語』の合戦の記述内容が異なります。また、第一次は織田方の勝利だったので、今川方は不利な情報を記録しなかった、とも考えられます。もちろん今後の研究によっては大きく話が変わってくる可能性もあるということです。
それはさておき、通説である第一次と第二次の小豆坂の戦いの内容はどのようなものだったのでしょうか?次からその詳細を確認していきましょう。
天文11年(1542)第一次小豆坂の戦い
小豆坂七本槍の活躍で織田方の勝利
天文11年(1542)8月、これ以上の織田勢の三河国侵攻を食い止めるべく義元は広忠と協力し、数万の大軍を送り出します。今川勢はまず床田原(正田原)に着陣し、軍勢を七段に展開しました。岡崎城を狙っていた信秀は安祥城を出陣し、岡崎城の南に位置する小豆坂で今川勢の先鋒を務める由原(庵原)と激突します。
当初は今川勢が押しており、信秀は盗木まで後退。那古野弥五郎が由原に討たれたものの、信秀の弟である織田孫三郎信光、織田造酒丞信房、岡田助右衛門直教、佐々木隼人佐勝通、その弟の佐々木孫助勝重、中野又兵衛忠利、下方孫三郎匡範らが長槍をふるって奮闘し、今川勢を撃退しています。
後世この七名の活躍は「小豆坂七本槍」と賞賛されました。互いに相手の城を攻略したわけではありませんが、第一次小豆坂の戦いは織田勢の勝利と記されています。
織田与二郎信康の存在の重要性
仮に信長公記を著した太田牛一がこの第一次小豆坂の戦いを誤って天文11年(1542)8月と記したのであって、本当は天文17年(1548)3月だった可能性はあるのでしょうか?それにしては季節があまりに違いすぎます。さらに注目すべきは織田勢で活躍した武将の中に織田与二郎信康の名前が記されていることです。こちらも信秀の弟です。すると、もしも太田牛一の勘違いで実は小豆坂の戦いは天文17年(1548)の一度だけだった場合、矛盾が生れてきます。
この信康は天文13年(1544)に信秀に従い、美濃国の稲葉山城攻めに参加しており、斎藤道三の戦術に敗れて戦死しているのです。つまり第二次小豆坂の戦いが起こった際にはもうすでにこの世を去っていたということです。
このことからもやはり小豆坂の戦いは二度起こったということではないでしょうか。
天文17年(1548)第二次小豆坂の戦い
前年における情勢の変化
それでは確実に起こったことが証明されている天文17年(1548)の第二次小豆坂の戦いはどのような内容だったのでしょうか? ただし、その前に織田氏と松平氏の情勢は大きく変わっていることを知っておく必要があるでしょう。それは前年の天文16年(1547)のことです。広忠は今川氏との関係を密にするために嫡男である竹千代(のちの徳川家康)を人質として駿府に送りました。しかし、途中で田原城の戸田康光が裏切り、竹千代を信秀のもとに送り届けてしまったのです。
もちろん信秀は竹千代を人質として広忠に服従を求めますが、広忠はこれに屈しませんでした。つまり、嫡男を殺されても織田氏と戦うことを選択したのです。
さらに信秀はこれまで争ってきた隣国・美濃国の斎藤道三と和睦します。道三の娘・帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男である信長に嫁がせました。これで信秀は三河国侵攻に戦力を集中することができるようになったわけです。
危機感を抱いた義元は軍師である太原崇孚(雪斎)を総大将として安祥城攻略の兵を送り出します。天文17年(1548)3月のことです。それを知った信秀はさっそく軍勢を率いて安祥城に入りました。
こうして第二次小豆坂の戦いが起こるのです。
今川方が勝利し、翌年には安祥城を攻略
今川勢は雪斎の他、朝比奈備中守泰能、朝比奈藤三郎泰秀、岡部五郎兵衛真幸といった武将たちが名を連ねています。雪斎は藤川に着陣し、上和田砦攻略のため進軍しました。一方で安祥城を出陣した信秀は上和田砦に入り、さらに迎撃のために出陣します。戦いは上和田砦近くの小豆坂で起こりました。こちらは出会い頭の遭遇戦だったようです。今川勢の先陣は泰秀が務めており、織田勢の先陣は信秀の庶子である織田三郎五郎信広(信長の兄)でした。
『三河物語』には、互いに敵状を知らず、思いがけずに遭遇したため動揺した、と記されています。戦いは高い位置から攻め寄せた泰秀が有利で、信広は一端後退して態勢を整え、二の陣の協力を得て逆襲しています。
攻め疲れた泰秀はここで敗色濃厚となるのですが、伏兵として好機をうかがっていた岡部真幸が織田勢に横槍を入れたために織田勢は総崩れに陥ります。その報告を聞いた信秀はすかさず上和田砦へ退却。戻ってきた信広に安祥城の守りを固くするよう指示して、自らは尾張国の古渡に帰国しています。
このように小豆坂の戦いで勝利をおさめた今川勢でしたが、この時に安祥城は攻略できずに兵を退いています。
ちなみに雪斎が安祥城を攻略し、信広を捕らえ、竹千代との人質交換を行った話は翌年のことです。ただし、その時点では松平氏当主の広忠は亡くなっており(病死または近臣による暗殺)、三河国の岡崎城は今川氏に接収されていました。
今川氏としては第二次小豆坂の戦いで勝利し、その勢いで翌年に安祥城を攻略したことで一気に三河国の情勢を覆すことに成功したわけです。
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おわりに
勝った側も活躍した武将もまったく異なる第一次小豆坂の戦いと第二次小豆坂の戦い。第一次小豆坂の戦いで勝利した織田氏はその後の三河国支配を有利に進め、また第二次小豆坂の戦いに勝利した今川氏もまたその後の三河国支配を有利に進めています。三河国を巡る両者のターニングポイントになったことは間違いないでしょう。実際に両方の戦いがあったと考えるのが自然な流れかもしれません。
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【参考文献】
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)
- 小島広次『日本の武将31 今川義元』(人物往来社、1966年)
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