「織田信秀」この親にしてこの子あり!信長の父は "尾張の虎" と呼ばれた男だった
- 2019/12/18
「織田信秀(おだ のぶひで)」という名前を聞いても、ピンと来ない方もいるでしょう。ですが、「お葬式で織田信長に抹香を投げつけられた故人」といえばわかるはず。そうです、織田信秀は信長のお父さんです。今でこそ「信長の父」という言われ方をしますが、むしろ信秀あっての信長とも言うことができるほど、尾張で名を轟かせた人物だったのです。
2020年の大河「麒麟がくる」にも高橋克典さん演じる信秀が登場しますので要チェック! 今回は「尾張の虎」と呼ばれた信秀の生涯をご紹介したいと思います。
2020年の大河「麒麟がくる」にも高橋克典さん演じる信秀が登場しますので要チェック! 今回は「尾張の虎」と呼ばれた信秀の生涯をご紹介したいと思います。
【目次】
信秀誕生と当時の尾張の支配体制
織田信秀の出自の前に、まずは当時の尾張国の支配体制について説明していきます。尾張守護代・織田氏の分裂
代々、尾張の守護を務めていたのは斯波(しば)氏です。斯波氏といえば足利一門で、室町幕府では管領にも任命される有力一族でしたね。一方の織田氏はというと、かねてから尾張の守護代を務めていた家です。
ところが応仁元(1467)年に勃発した応仁・文明の乱をきっかけとして、「岩倉織田氏」と「清州織田氏」の2つに分裂してしまいます。
その背景には主家である斯波氏の家督争いがありました。斯波氏の家督争いは応仁・文明の乱の一因ともなっています。分裂した織田氏は以後、岩倉織田氏が尾張国の上四郡を、清須織田氏が下四郡を支配し、対立関係となるのです。
弾正忠家に誕生
では信秀はどちらの家の出身なの?─── と思いますよね。実はどちらでもありません。信秀は清須織田氏に仕えた清須三奉行の一角「弾正忠家」の出身です。清須三奉行とは以下3つの織田家のことで、それぞれの名前は尾張守護代・織田達勝(みちかつ)の老臣たちに由来しています。
- 因幡(いなば)守家
- 藤左衛門家
- 弾正忠(だんじょうのちゅう)家
ちなみにこの三家はいずれも織田一族とのことですが、清洲織田氏の庶流なのかどうか等、ハッキリしたことはわかっていません。そして弾正忠家の嫡男として永正5年(1508)年頃(永正7年、8年説もあり)に誕生したのが織田信秀でした。
父は信定(信貞とも)(←実はすごい人なので、名前を覚えておいてくださいね)、母は織田良頼の娘と伝わっています。
繰り返しますが、あくまでも信秀は尾張守護代の清州織田氏に仕える家柄の出身…。決して始めから、身分が高かったわけではないのですね。
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斯波氏に代わり、弾正忠家が台頭
さて、再び尾張の支配体制の話に戻りましょう。冒頭で説明した守護・斯波氏は当時、かなりのピンチに陥っていました。全盛期は信濃・加賀・越前・遠江・尾張の守護職を兼ねていた斯波氏でしたが、この頃は尾張一国にしがみつくしかない状況だったのです。なんてったって、時は戦国ですからねぇ。
そして斯波氏の当主・斯波義達(よしみち)は、遠江守護の座を奪った今川氏親(義元の父)と対立。遠江を取り返そうと、遠征を繰り返します。尾張国内には反対する者もいましたが、義達はこれを抑えて今川氏と争っていました。例えば大和守家の織田達定は、義達との合戦の末に殺されています。
ところが永正13(1516)年今度は斯波氏が今川氏に敗れ、義達は捕虜になってしまいます。足利一門だということで命は助けられたものの、剃髪を強いられることに。そして僧形のまま尾張に送り返されるという、恥辱を受けることになりました。
これを機にそれまで従属していた織田氏や国衆も離れていき、斯波氏は没落します。そんな斯波氏に代わり、尾張国内で実権を握るようになったのが信秀の生家・弾正忠家だったのです。
「えーどうして? どうして?」って感じですよね。
岩倉織田氏でも清須織田氏でもなく、なぜその下の弾正忠家が力を持つようになったのでしょうか。その理由は、先ほど名前を覚えておいてくださいと書いておいた、信秀の父・織田信定にあったのです。
弾正忠家の台頭
弾正忠家台頭の理由は、信定が “津島” を掌握したことに起因します。はて? 津島とは? 津島は尾張の西部にあった港町のことです。伊勢湾貿易の要衝であり、かつ、多くの参詣者が集まる牛頭(ごず)天王社の門前町でもありました。
こういった背景によって、豊かな経済力を有していたのが津島の土豪たち。いわゆる「津島衆」と呼ばれる人々です。強固な共同体を作り上げていた彼らのもとに、信定は侵攻します。そして抗争の末に和睦し、次第に領有化を進めていきました。
経済的基盤を手に入れた信定は、遅くとも大永(1521-28)年間には勝幡(しょばた)城を築き、居城したと考えられています。
勝幡城は津島からおよそ北4kmの場所にあり、河川によって結ばれていました。弾正忠家の信定はこうして商業地の津島を支配下に置き、尾張国内で勢力を拡大していったのですね。
那古野城を奪取
というわけで以上、長い前置きでした。これでやっと「尾張の虎」こと、織田信秀の話ができます。信秀が家督を継いだとされるのは、大永6(1526)年4月から大永7(1527)年6月の間とみられています。『言継卿記』
信秀に関する確かな資料は、あまり多く残っていないというのが現実です。ただし『言継卿記』という資料からは、一時期の尾張国内や信秀のことをかなり具体的に知ることができます。『言継卿記』とは、山科言継(ときつぐ)という公家の残した日記のことです。
信秀は歌鞠(かきく)の指導を受けるため、同じく公家の飛鳥井雅綱という人物を京都から招きました。そのとき雅綱から、尾張に一緒に行こうと誘われたのが山科言継でした。
言継は几帳面な性格をしていたため、信秀に関する詳細な記録(細かすぎてちょっと嫌になるレベル)を残します。そんな彼のおかげで私たちは、およそ1カ月半の間とはいえ、天文2(1533)年の信秀(20代前半~半ば)や織田家の様子がわかるのです。ありがとう、言継。グッジョブ、雅綱。
『言継卿記』の中には例えば、
- 前年までは信秀が清須織田氏・藤左衛門家と交戦していた
- 織田一族や尾張の国人たちが大勢集まり、勝幡城・清須城(当時は守護代大和守の居城)では連日のように鞠会が、何度か歌会も開かれた
- 清須に滞在している頃は、守護代大和守・織田達勝が手厚くもてなしてくれた
- 雅綱が熱を出して寝込んだときは達勝や信秀など、みんながお見舞いに来てくれた
- 勝幡城が驚くほど、立派な建築だった
等が記されています。
きっと、いい旅だったんだろうな。絶対、二人は京都で言ってますよね。また尾張行きたいよねって。そんな妄想はさておき、これらから当時の信秀は、すでに守護代と対等に渡り合い、さらに財力までも蓄えている様子がわかりますね。
さらに『言継卿記』には、こんなことも書かれています。
那古野今川氏の当主・竹王丸(たけおうまる)も、催しに何度か出席していた
那古野今川氏は遠江守護今川氏の支流で、尾張にある那古野城を本拠地としていました。竹王丸とは今川義元の弟で、のちの今川氏豊のことです。当時はまだ12歳という若さでした。
『名古屋合戦記』
また『名古屋合戦記』という資料によると、信秀と氏豊は連歌を通じて知り合い、お互いに訪ねあって連歌を楽しんでいたのだとか。やがて信秀は連歌のために、氏豊のいる那古野城に泊まるほどになったそう。彼氏か!って。とにかく2人は年が離れているとはいえ、かなり仲が良かったことが推測できますね。
ところがこの後、信秀はとある“策略”によって、氏豊から那古野城を乗っ取ってしまったというのです。その策略は、こんな風に書かれています。
那古野に滞在中の信秀が病気になり、使いを飛ばしたところ、なんと武装した兵士たちが攻め込んできました。一方、那古野ではそんなことは考えもしなかったため、丸腰の状態。よって、若き氏豊は城を追い出されることに──。
信秀は、はじめからそのつもりで氏豊に近づいたのでしょうか……。信秀、ひどすぎる…。
とはいえ、『名古屋合戦記』は後に成立した資料。そのため信憑性はそれほど高くないようです。なぜならこの出来事は享禄5(1532)年のこととされていますが、メモ魔によって書かれた『言継卿記』によると、氏豊は天文2(1533)年には那古野にいることになってますからね。
確かな資料によると、信秀は天文7(1538)年には那古野城を領していたことが確認できるので、氏豊から城を奪ったのは天文2-7(1533-38)年の間と考えられます。
この間の天文3(1534)年には、嫡男の信長が誕生。そのため信長の生誕地としては、勝幡城と那古野城という2つが考えられているというわけです。
西三河への侵攻(松平・今川氏との戦い)
それでは、この頃の尾張を取り巻く情勢はどのようなものだったのでしょうか。尾張の北・美濃国では「マムシ」の異名を持つ斎藤道三が台頭。東・三河国では松平氏が勢力を広げており、そのまた東には駿河国・遠江国を支配する今川氏という存在がありました。
天文4年(1535)年、松平清康(家康の祖父)が守山城を目指して、尾張へと侵攻。しかし清康は守山城を包囲していた陣営で、近臣によって殺害されてしまいます(守山崩れ)。こうした混乱の中、信秀は松平氏の居城・岡崎城へと迫ったのでした。
一方、殺された清康の嫡子・松平広忠(家康の父)はまだ10歳という若さ。松平氏の分家出身・松平信定(信秀と通じていたとも)に岡崎城を追われたため、駿河の今川氏を頼ることになります。そして天文6年(1537)年、今川義元の支援によって岡崎城に戻ることができたのです。以後、広忠は今川方に付くことになります。
天文9年(1540)年6月、今度は信秀が西三河への侵攻を開始。西三河の要衝・安祥城を松平氏から奪うためでした。実際に信秀が安祥城を落とした時期については、天文13(1544)年など諸説ありますが、はっきりとしていません。しかしこれ以降、織田氏と今川・松平氏の間で激戦が展開されることに。
天文11(1542)年には、信秀の動きに危機感を募らせた今川義元が動きました。当時は信秀が掌握していた安祥城へと、今川・徳川連合軍が攻め寄せてきたのです。
これは「第1次小豆坂の戦い」といい、織田方が勝利していますが、実際にこの合戦は存在しなかったという説もあります。
竹千代(徳川家康)を人質に
その後、信秀との戦いにたじろいだ広忠は今川に援軍を求め、その見返りとして嫡男の竹千代(のちの徳川家康)を人質として駿府へと送ることに。ところが、なんということでしょう。敵方であるはずの信秀のところに、突如竹千代が届いたのです。むむっ?
背景には松平・今川方だったはずの田原城主・戸田康光の裏切りがありました。護送中の竹千代を奪い、尾張の信秀のもとへと送ったのです。しかも有料で…。
戸田が受け取った見返りは、永楽銭で百貫文や千貫文だったとも伝わっています。
こうして竹千代を買った信秀は、広忠に対して今川氏との断交を迫ります。が、広忠はこれを拒絶。父親に見捨てられた家康少年は、一時的にではありますが(詳しくは後述)、織田方の人質になったのでした。
色々かわいそうな竹千代ですが、殺されなかっただけマシなのでしょうか……。
天文17(1548)年3月、再び小豆坂の地で信秀と今川・松平連合軍の間に合戦が行われます(第二次小豆坂の戦い)。
『三河物語』によると、両軍は互いに敵状を知らずに小豆坂でバッタリと出会ったのだとか。ええ……!? そのため、互いに動転したようです。そら、驚きますわ。
激戦の末、最終的には織田方が総崩れとなり、敗北。信秀は安祥城に子の織田信広を残し、清須へと戻っています。
そして天文18年(1549)年には、松平広忠が暗殺されたのを機に、今川義元が太原雪斎らの軍勢を派遣し、岡崎城を接収。また同年には安祥城も攻撃を受け、信広が今川方に捕らえられてしまいます。
結局、信広は竹千代と交換され、無事に織田家へと戻ってくることができました。しかし安祥城を失ったことにより、織田方の西三河における支配権はほぼ失われたのです。
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美濃への侵攻(斎藤道三との戦い)
さて、信秀が戦っていたのは、松平氏や今川氏だけではありませんでした。三河への侵攻と並行して、信秀は斎藤道三が台頭する美濃にも侵攻していたのです。時を遡りますが天文13(1544)年の9月、信秀は越前の朝倉氏と協力して美濃を攻撃します。朝倉氏が協力したのは道三の敵であった美濃国守護・土岐頼純を保護していたからでしょう。
この攻撃で大垣城を陥落させたものの、続く道三の居城・稲葉城攻めには失敗。道三軍の急襲を受けたために大敗を喫しています。
この戦いで信秀は、弟の信康や清須三奉行の一人・織田因幡守ら多くの家臣を失うという、屈辱的な大敗を味わいます。そればかりか尾張国内では威信が失墜し、一時は親密な関係であった守護代の清須織田氏が反旗を翻すという事態に。
おおお……信秀の周りは敵ばかりではないですか。
天文16(1547)年(天文17年説もあり)の11月には、信秀が掌握していた大垣城を奪還しようと、道三が攻め込んできますが、信秀はこれを助けようと出陣し、退却させることに成功しています。
ところが今度は、清須方の軍勢が信秀の留守を狙って、当時の信秀の居城・古渡城に攻撃を仕掛けてくるではないですか。何ということでしょう。まさにカオス…。
結局信秀は、帰陣を余儀なくされてしまいます。そして老臣の平手政秀が清須方との和睦交渉を進め、和議を成立させました。
一方、道三との関係はどうなったのでしょうか。
先述の通り、信秀は四面楚歌状態にありました。道三と今川・松平氏の両者と同時に対峙することは、うまくいかないことを悟った信秀。そこで道三とも和睦を進めます。
そして、そのための条件となったのが、信秀の嫡男・信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)との縁組でした。時期は天文17-18(1548-49)年頃とされています。
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最期
こうした中、信秀は病に倒れます。天文21(1552)年3月、末盛城で息を引き取ります。なお、没年は天文18~21年まで諸説ありますが、最有力とされるのは天文21年です。尾張を代表する武将となった信秀でしたが、結局統一までには至りませんでした。その野望は、当時はまだ“大うつけ”とみなされていた信長へと託されたのです。
おわりに
織田信長の父・信秀の生涯について紹介しましたが、信憑性の高い史料が少ないため、不確実な点が多いのは残念です。尾張で台頭していた弾正忠家の嫡男として誕生した信秀は、対外戦争などを積極的に仕掛け、尾張国内を代表する勢力にまで登り詰めました。尾張統一とまではいきませんでしたが、息子・信長の雄飛の基礎を築いたと言えるでしょう。
もし彼の活躍がなければ、我々の知る織田信長もいなかったのかもしれませんね。
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【主な参考文献】
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)
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